4万2000人の米軍相手にわずか1万人の日本軍が奮戦し、74日間に及ぶ徹底抗戦を繰り広げたペリリュー島の戦い。守備隊指揮官・中川州男大佐はどのような戦略を練っていたのか。『ペリリュー玉砕 南洋のサムライ・中川州男の戦い』(文春新書)より一部抜粋し、上陸時の戦いを振り返る。(全2回の後編/前編を読む

写真はイメージ ©︎AFLO

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上陸開始

 運命の朝を迎えた。天気は晴れ。海は穏やかである。

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 昭和19年(1944年)9月15日の午前5時30分、いよいよ米軍がペリリュー島への上陸作戦を開始した。

 午前6時15分、海岸線から約13キロ離れた海上において、約50隻もの輸送船の中から、20数隻の大型船艇が卸下された。目指すべき上陸地点とされたのは、日本側が「西浜」と呼んでいた海岸線である。中川の予測は的中した。

 日本軍の守備隊は、この西浜とその近辺に6つの陣地を設け、それぞれモミ、イシマツ、イワマツ、クロマツ、アヤメ、レンゲと命名していた。モミ、イシマツ、イワマツ、クロマツを守るのは、歩兵第2連隊第2大隊の約635名。大隊長は富田保二少佐である。この隊は「西地区隊」とも呼ばれた。同大隊の一員であった永井敬司さんはこう語る。

「私は第2大隊の本部付だったので、富田少佐と一緒に富山にある大隊本部壕にいました。海岸線の陣地が第1線ですが、大隊本部壕はその後ろの第2線に位置していました。富田少佐は茨城県の出身で、旧制の下妻中学から陸軍士官学校に進んだ方です。非常に勇敢で実戦型の軍人という感じの人でしたが、上陸戦の時、まだ新婚2年目という話でした」

 一方、アヤメ、レンゲを守るのは、歩兵第15連隊第三大隊の約750名。大隊長は中村準大尉の後を継いだ千明武久大尉である。こちらは通称「南地区隊」と呼ばれた。

 海岸線には塹壕やタコ壷などが幾つも設けられ、速射砲を備えたトーチカも構築されていた。

 守備隊長である中川は、山岳部に位置する洞窟内の連隊本部(守備隊本部)にいる。

 上陸地点とされた西浜を最初に襲ったのは、艦砲射撃による集中砲火であった。これに艦載機からの爆撃が加えられた。