太平洋戦争末期の1944年9月から約2カ月間行われたペリリュー島の戦い。激戦地となった島の守備隊指揮官だったのが、中川州男大佐である。米軍が「数日で落とせる」と見通していた島を、中川大佐は74日間もどのように守ったのか。ここでは『ペリリュー玉砕 南洋のサムライ・中川州男の戦い』(文春新書)より抜粋。中川大佐の周到な準備を辿る。(全2回の前編/続きを読む

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手作業による掘削作業

 こうしてペリリュー島では、地下複郭陣地を構築するための大規模な掘削作業が始まった。地下陣地はもちろん、道路の整備なども同時に進められた。

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 しかし、作業は困難を極めた。まず将兵たちを苦しめたのが、この島の気候である。パラオに向かう前、歩兵第二連隊が駐屯していた北満は極寒の地であった。かたやペリリュー島の最高気温は、三十度を軽く超える。さらに、地下洞窟内は高温多湿で、兵士たちの体力を容赦なく奪っていった。兵士たちは時に軍服を脱ぎ、ふんどし姿になって掘削作業にあたった。永井敬司さんが当時を振り返る。

「とにかく珊瑚が固いんです。本当に大変でしたよ。それでも毎日、昼夜兼行でチャンカン、チャンカンと少しずつ掘り進めていきました。時にはダイナマイトを使って、特に固い部分を吹っ飛ばしたりしました」

 しかし、ダイナマイトは不足しがちで、掘削の大部分は手作業で進められたという。

写真はイメージ ©︎AFLO

 こうした状況に鑑み、5月24日にはそれまでパラオ本島に駐留していた歩兵第15連隊の第3大隊がペリリュー島に移動。ペリリュー地区隊に編入され、中川の指揮下に入った。尾池隆さんはこう説明する。

「水戸の第2連隊だけでは足りないだろうということで、パラオ本島にいた私たちの連隊の中から1個大隊がペリリュー島に移動となりました」

 尾池さんが属する第2大隊は、そのままパラオ本島に残った。

 歩兵第15連隊第3大隊のペリリュー島到着と共に、中川はそれまで3つに分けていた区画を、東、西、南、北という四つの区分に改めた。さらに中川は、長い砂浜のある西地区を米軍の上陸地点と予測。飛行場のある南地区と共に、より堅牢な陣地を構築するよう指示を出した。

 ペリリュー島に移動となった歩兵第15連隊第3大隊の大隊長であった中村準は、新たに携わるようになった陣地構築の軍務に関して、戦後にこう記している。

〈大隊は全力を挙げて陣地構築作業に没頭した。爆薬類は皆無。地質は珊瑚礁のためコンクリート以上の固さだ。灼熱の熱帯の太陽をまともに受ける炎天下、将兵は黙々と作業に従事した〉(『闘魂・ペリリュー島』)