進む陣地構築
ペリリュー島の人員はこうして増強されたが、それでも作業は難航した。そこで中川はパラオ本島の集団司令部に対し、さらなる応援部隊の派遣を要請。これを受けて、パラオ本島に駐屯していた歩兵第15連隊の福井義介連隊長は、第2大隊の一部などをペリリュー島に追加派遣し、作業を手伝わせることを決断した。歩兵第15連隊第二大隊の一兵士であった尾池隆さんも、応援部隊の一人となった。
「私もペリリュー島まで出向いて、陣地構築を手伝うようになりました。ペリリュー島までは船で2時間ほど。日帰りだったり、2泊くらいしたこともありました。あの島は固い岩が多いため、鶴嘴がなかなか通らなくて本当に大変でした。蚊もやたらと多くて、兵隊はみんな苦労したんですよ。泊まる時は、木々を切り拓いて、ヤシやビンロウ樹の葉っぱで簡単な屋根をつくり、その下で眠りました」
その間、米軍の散発的な空襲はあったが、作業は続けられた。
ペリリュー島には川がないが、珊瑚で海水が濾過された天然の水場が幾つかあった。完全な真水ではなかったが、兵士たちはそれらを飲んで喉を潤した。その他、この島特有のスコールがきた時には、ドラム缶などに雨水を溜めた。また、陣地構築の合間を縫うようにして、演習も実施された。
「中川大佐は実に細やかな人だった」
中川は島内の各地を精力的に巡り、兵士たちを激励した。時には中川自ら、泥に塗れて作業に参加したこともあった。中川は一切の妥協を許さなかったが、休憩時間には兵士たちと共に談笑することもあったという。
水戸2連隊ペリリュー島慰霊会の事務局長を務める影山幸雄さん(73歳)は、ペリリュー戦からの生還者である元兵士の方々から様々な体験談を聞いた経験を持つ。影山さんはこう語る。
「ペリリュー島からの生還者の中には、中川大佐と直接の接触があった元将校の方々もいました。みなさん、もう亡くなられましたが、そんな方々がよくおっしゃっていたのは、『中川大佐は実に細やかな人だった』ということです」
影山さんの父親は、かつて歩兵第2連隊に所属していた。しかし、同連隊がペリリュー島に派遣される前に除隊となったため、生き残ることができた。こうした縁から慰霊会の活動をするようになった影山さんが、次のような話を伝える。
「ペリリュー島からの帰還兵の一人である山口永さんという元少尉の方がおっしゃっていましたが、中川大佐は将校を定期的に昼食などに呼んで一緒に食事をし、そこで陣地の配備や兵員の動きなどを聞くということを常にやっていたそうです。縦社会である軍隊では、連隊長ともなると自分の側近を通じて下に指示を出していくのが普通なわけですが、中川大佐の場合は末端の将校にまで直接、話をしたと」
山口は歩兵第2連隊の第2大隊第6中隊小隊長を務めた人物である。影山さんが続ける。
「山口さんは『中川大佐は雲の上の存在なので、呼ばれると緊張して困った』ともおっしゃっていました。そして、呼ばれると随分と細かいことまで聞かれたそうです」