太平洋戦争開戦の日までの熾烈な国際外交交渉と、開戦の日の24時間を描いたドキュメント『[真珠湾]の日』は、「昭和史の語り部」半藤一利さんの、もう一つの『日本のいちばん長い日』と言うべき作品である。

 本書より一部抜粋して、真珠湾攻撃の日における、日米双方の緊迫感あふれる事態の推移を紹介する。第4回は、真珠湾攻撃の一報を聞いた当時の日本人たちの反応である。(全4回の4回目/最初から読む

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「生きているうちにこんなめでたい日に遭えるとは」

 日本では――午後8時45分、ラジオが軍艦マーチとともに、大本営海軍部発表の驚倒(きょうとう)するような大勝利の報をやっと全国民に伝えた。

「1、本8日早朝、帝国海軍部隊により決行せられたるハワイ空襲に於いて現在までに判明せる戦果左の如し。

 戦艦2隻轟沈、戦艦4隻大破、大型巡洋艦約4隻大破(以上確定)、他に敵飛行機多数を撃墜破せり。我が飛行機の損害は軽微なり。

 2、我が潜水艦はホノルル沖に於いて航空母艦一隻を撃沈せるものの如きも未だ確実ならず。

(3、4、略)

 5、本日同作戦に於いてわが艦艇損害なし」

 戦果は、山本の「少し低い目に見とけ」という指示にもとづいたものであったが、轟沈(ごうちん)という目新しい言葉で勝利に景気をつけている。ラジオは、1分以内に沈んだものを轟沈とよぶ、と解説した。

徳川夢聲

 ほとんどすべての国民が、ラジオの報に聞きいった。いくらか反戦的であったわたくしの父は、これを聞くと神棚に燈明(とうみょう)をあげたのを覚えている。作家長與善郎(ながよよしろう、53歳)は「生きているうちにまだこんな嬉しい、こんな痛快な、こんなめでたい日に遭えると思わなかった。(中略)すでにアメリカ太平洋艦隊は木っ端微塵に全滅されていた。これではこの聖戦がこれからであると百も承知しつつ、兎も角も万歳を叫ばずにはいられない」と書き、芸能家徳川夢聲(とくがわむせい、47歳)は「今日の戦果を聴き、ただ呆れる」と記し、さらに翌9日には「あまり物凄い戦果であるのでピッタリ来ない。日本海軍は魔法を使ったとしか思えない。いくら万歳を叫んでも追っつかない。万歳なんて言葉では物足りない」と興奮を日記にぶつけている。