日米双方で約1万2000人が戦死した悲劇の島・ペリリュー島(西太平洋、パラオ共和国)。この島から生還できた日本兵はわずか34名だった。そのうちの一人、土田喜代一氏にノンフィクション作家の早坂隆氏が戦場の記憶を訊いた。
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棒地雷を渡されて
〈「ペリリュー島から帰還した三十四名」の内の一人である土田喜代一さん(95)は、大正九年一月二十日、福岡県八女郡で生まれた。天皇、皇后両陛下(編集部注・現在の上皇上皇后両陛下)がペリリュー島を訪問されることを知った時、土田さんはこう感じたという。〉
ペリリュー島というのは非常に小さな島で、一般の人でも行きづらい場所です。そこに陛下が行かれるということになれば、靖国神社にいる戦友たちがビックリするんじゃなかろうかと思って。
ですから、私としては靖国の英霊たちも陛下と一緒にペリリュー島に行ってもらいたいわけですよ。『陛下がよもやこの島まで来られるとは夢にも思いませんでした。ありがとうございました』と御霊は喜び、そして再び靖国神社に帰られるでしょう。どれだけ英霊たちが感激されるだろうかなあと思っています。
戦友の中には「天皇陛下万歳」との言葉を残して息絶えた者たちもいましたから。ある工兵隊の少尉も「天皇陛下万歳」が最期の言葉でした。
〈土田さんは昭和十八年一月、補充兵として召集され、海軍に入隊。パラオのペリリュー島に転進したのは、十九年六月のことである。三カ月後の九月十五日、米軍による同島への上陸作戦が始まった。〉
私は海軍の「見張り員」でしたから、米軍の上陸が始まった時には、もはや役割は済んでいたわけです。そこで、私は海軍が使用していた鍾乳洞の内部におりました。十五、六人ほどの兵士がいたと思います。
しかし、激しい戦闘が繰り広げられる中、海軍としても何もしないわけにはいきません。私も「見張り員」から「陸戦隊」になったわけです。私はすぐに海軍通信隊の壕に移動。そして、その日の夜、壕の中で陸軍のとある兵士から「棒地雷」を渡されたのです。海軍の私は棒地雷というのをこの時に初めて見ましたが、陸軍には以前からあったようですね。ちょうど刀の鞘を少し大きくしたようなもので、先端に爆薬筒が付いている。この棒地雷を持ったまま「戦車のキャタピラに体もろとも突っ込め」というのです。