「戦車攻撃の希望者、集まれ」

 やがて「米軍のシャーマン戦車が接近中」との情報が入りました。すると、中隊長が立ち上がって、声を張り上げたのです。「今から戦車攻撃、希望者三名、集まれ」と。それで、最初に火炎瓶を持っていた伍長か何かがパッと「はい、私、行きます」と答えました。それから、二人目が続いて手を挙げた。私は棒地雷を持ったまま、迷いに迷いました。すると、私の隣にいた小寺亀三郎という整備兵が「小寺一等兵、参ります! 死ぬ時は潔く死ねと両親から言われました」とこう叫んだわけですよ。

 この小寺というのは、「おテラさん、おテラさん」といつも周囲からバカにされていたような男なんです。銃もおそらく実弾を撃ったことがないんじゃないかと思う。そんな小寺が「参ります!」と言ったので私は驚きました。私としては、小寺が自分の身代わりになったような、そんな気がしました。

 決死隊となった三人は「行って参ります」と敬礼してから、一列になって壕から出て行きました。三人が壕を出て二十分ほど過ぎた頃、物凄い爆音が響きました。無論、三人が壕に戻ることはありませんでした。

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 戦後、小寺のご家族の方に連絡を取りたいと思って復員局に行ったのですが、取り次いでもらえませんでした。それでも、復員局からは「父親らしき人が遺骨を取りにきた」との説明を受けました。しかし、木箱の中は空っぽだったはずです。

日本軍が立てこもったペリリュー島の塹壕 ©時事通信社

〈米軍側が「二、三日で終わる」と想定していたペリリュー島への上陸作戦は、日本軍守備隊の懸命の肉弾戦により一進一退の戦局へ。海岸線には両軍の屍が折り重なり、日本兵が潜む壕はガソリンを流し込まれた上で火炎放射器によって焼き払われた。この壮絶なる戦闘を知った天皇は、実に十一回にもわたって御嘉賞(お褒め)の言葉を送った。〉

 天皇陛下の御嘉賞について初めて聞いた時は、気持ちも高まったものです。二度目の時は「またもらったそうだよ」「よおし」と気合いを入れ直しました。しかし、その後は激戦に次ぐ激戦で連絡も充分に取れなかったため、十一回ももらったということは知りませんでした。そのことを知ったのは、戦後に帰国してからです。ちなみに、戦場で私が見た米軍の死体は、黒人のものが多かったですね。ほったらかしになった大きな身体に、無数のウジ虫が湧いていました。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(早坂隆、土田喜代一、尾池隆「ペリリュー生残の記」)。