日米双方で約1万2000人が戦死した西太平洋の島・ペリリュー島(西太平洋、パラオ共和国)。元日本兵の尾池隆氏はペリリュー島での戦闘には加わららず、パラオ本島で後方支援を担当していたのだが……。

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島のあちこちから唸り声

〈九月十五日、米軍がペリリュー島への上陸作戦を開始。パラオ本島に駐留していた尾池さんも、ペリリュー島への後方支援に奔走する。〉

 何とかしてペリリュー島の部隊を助けなければいけないと、物資を運びに行くんですね。夜、食糧や武器を船に積み込んで送るわけです。米や甘味品の他、対戦車砲が足りないということで、私はそれらの物資を運びました。夕方に用意しておいたものを船に頑丈に縛り付け、夜になってから出ていくのです。

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 夜が明ける頃にはペリリュー島に着きます。現地の第二連隊は惨めなものでしたよ。島のあちこちから「ウウー、ウウー」と唸り声がする。重傷を負った兵たちが、可哀想に椰子の木の下で呻いていました。

米軍が上陸したペリリュー島のオレンジビーチ ©時事通信社

〈九月二十二日、パラオ本島の集団司令部は、劣勢に喘ぐペリリュー島への「逆上陸部隊」の派遣を決定。第十五連隊第二大隊に属する約八百四十名が、パラオ本島からペリリュー部隊の援護に向かうこととなった。大隊長は飯田義栄少佐である〉

 友軍を見殺しにするなというわけですね。夜、船に乗って斬り込みに行くことになりました。飯田大隊長は「南征一心隊」という襷を肩から掛けていました。

 七、八十人ほど乗れる舷の広い大発動艇(上陸用船艇)に、私も乗り込みました。そして、飯田大隊長が仁王立ちになって訓示しましたよ。「我々はいよいよ命を投げて日本のために、さあ、時期が来たぞ」「これからペリリュー島に突っ込むから覚悟せい」と。軍刀を抜いて「帰ることを許さず」とこう言いました。

旧日本軍の防空壕跡(パラオ・ペリリュー島) ©時事通信社

 ところがですよ、実はその時、私は四十二、三度の高熱を出してフラフラの状態だったのです。その様子に気付いた中隊長の桑原甚平中尉が、「尾池はどうしたんだ?」と准尉に聞きました。准尉は「尾池は実は二、三日前から高熱を発して、この通りなんです」と。すると桑原中隊長が「よし、わかった。降ろせ。船から降ろして入院させい」と言いました。

 私を降ろしてから、船はペリリュー島に向かいました。私は涙を流して「行ってこいよ」と見送りました。『俺は降ろされて、申し訳ねえことをしたなあ。俺はもう落伍者だ』なんて思ったもんでしたよ。『俺は屑になっちゃったわい』と。それから、私は陸軍病院に入れられました。それで私は生きたんです。