教皇フランシスコの逝去――映画と地続きになった「教皇選挙」
その教皇フランシスコは、2025年4月21日、復活祭の翌日の月曜日に生涯を閉じた。前日に復活祭のメッセージを送るなど、最後の最後まで教皇としての職務を全うしての最期であった。
それから新教皇レオ十四世の就任が決まり、カトリック教会の新たな体制が動き始めるまでの1ヶ月弱は、新聞、テレビ、ラジオなどからひっきりなしに取材を受けるという、私の人生始まって以来の慌ただしい時間を過ごした。教皇フランシスコについて、教皇選挙について、カトリック教会の今後について、様々なインタビューを受けたり、コメントを寄せたり、テレビに生出演したりする機会を与えられるなかで、普段以上にバチカンの最新情報に触れる機会も増えていった。
時を同じくして、映画の『教皇選挙』が日本でも公開され、大きな話題となっていた。映画の『教皇選挙』と現実の「教皇選挙」が不思議な仕方で地続きとなり、世の中の「教皇」に対する関心がいつになく盛り上がっているこのタイミングで、亡くなった教皇フランシスコの、そして新たに教皇となったレオ十四世の言葉を多くの人に届けたい。そうした思いを込めて執筆したのが本書である。
我が国のマスメディアで「教皇」が取り上げられるさいには、どうしても宗教色を脱色したような仕方で取り上げられがちである。教皇フランシスコが来日したさいに、多くのメディアが「核兵器」や「原発」や「死刑」といった問題に焦点を当てながら報道していたように。
たしかに、多くの人がキリスト教についての深い理解を持ってはおらず、キリスト教的な事柄についての関心もさほど持ってはいないかもしれない現代日本において、多くの人が視聴するテレビ番組において「教皇」を取り上げようとする場合には、宗教色を脱色して、或る種の普遍的なメッセージの語り手として取り上げるのが無難なやり方なのかもしれない。
だが、当然ながら、そのようなやり方では、「宗教者」である教皇の全体像を捉えることはできない。また、一見教皇が一般的なメッセージを語っているように見える場合であっても、その背後には必ず、キリスト教的なヴィジョンがある。そのキリスト教的なヴィジョンをある程度理解しておいてはじめて、教皇が語っている「普遍的」なメッセージも心の意味で理解することができるのである。
「キリストの代理人」とされる教皇は、優秀なスタッフや、キリスト教に千年の伝統に支えられて、日々起きる様々な出来事に即しながらキリスト教の根本的なメッセージを語る存在であり、キリスト教について我々が理解を深めるための絶好の入口になる存在でもある。キリスト教信仰に積極的な関心がある人であれ、ビジネスなどのためにキリスト教のことをとりあえず押さえておきたいという人であれ、キリスト教に反感を持っている人であれ、教皇の言葉に触れることは、キリスト教というものを理解するためのまたとない入口になる。
そのような観点から、亡くなった教皇フランシスコ、新教皇レオ十四世、教皇フランシスコの前任者であり、現代を代表する神学者でもあったベネディクト十六世の言葉を深く読み解いていきたい。

