RAAは当初、戦前に酌婦・芸妓・娼妓等をやっていた者を優先して雇うよう指示こそ出していたものの、そのような女性ばかりがうまく集まるはずもなかった。
結局、戦争で男手を失くした家庭の寡婦や娘、空襲で住居や生計のための資産を失った家庭の女性らが、売春とは知らず、衣食住を保証するという好条件に引かれて多数集まることになった。
内務省の通達からわずか九日後の二七日、東京・大森海岸の料亭「小町園」が慰安所第一号としてオープンした。これを皮切りに慰安部・特殊施設部・キャバレー部などが開設され、東京都内では終戦三カ月以内に二五カ所の慰安所が開設している。
わずか1年で「進駐軍兵士の出入り禁止」に
しかし、RAAによって提供されるサービスは、兵士たちの健康や安全にも関わる問題を引き起こした。特に性病や感染症の拡大が懸念されるようになり、GHQは翌一九四六(昭和二一)年三月に進駐軍兵士の出入り禁止を告げる。
それに先立つ一月に、GHQは公娼制度の廃止を命令しているが、日本政府は業者が私娼を抱える貸座敷という名目で事業を継続させた。地域を限定して「特殊飲食店」として認可し、売春は「従業婦(私娼)の“自由意志”によるもの」とした。事実上の公娼制度の継続であった。
これらの指定地区を「赤線」といい、売春の許可を得ず飲食店の許可だけで営業する飲食店街は「青線」と呼ばれた。



