「おばさん、日本は負けたんだ」「どうしたんだ? え、どうしてだ?」――1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送によって、日本の敗戦が公のものとなった「終戦の日」。当時の日本人たちはどのような思いを抱いたのか?
1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約締結によって国際社会に復帰するまで、焦土から復活へと向かう混沌と激動の日本の姿を、250点の貴重写真でたどる新刊『写真が語る敗戦と占領』(太平洋戦争研究会/筑摩書房)より一部抜粋してお届けする。
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八月一五日の玉音放送
一九四五(昭和二〇)年八月一四日の夕方、「翌日正午より重大発表が放送されるゆえ、国民一同は必ず聴くように」との異例の放送が全国民に向けてラジオから流された。その夜、宮内省内で昭和天皇による「終戦の詔書」の朗読がレコード盤(「玉音盤」と呼ばれた)に録音され、翌日の放送に備えられた。
八月一五日、国民も戦地の将兵もラジオの前に集まり、威儀を正してその時を待った。
正午、前日の予告通り、ラジオから重大発表が放送された。終戦の詔書を天皇自らが朗読する「玉音放送」である。広く日本国民が天皇の肉声を聴いた最初の出来事であったが、当時のラジオの劣悪な音質、独特の抑揚、詔書に含まれる難解な漢語により、ほとんどの国民は内容を理解できなかったという。しかし、特別な放送という事情と異様な雰囲気に、日本の無条件降伏という事情を理解した。
「玉音が聴え始めた。その第御一声を耳にした時の、肉体的感動。全身の細胞ことごとく震えた。
……朕深ク世界ノ大勢卜帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ……
……而モ尚交戦ヲ継続セムカ、終ニ我ガ民族ノ滅亡ヲ招来……
……然レドモ朕ハ時運ノ趨ク所堪エ難キヲ堪エ、忍ビ難キヲ忍ビ……
何という清らかな御声であるか。
有難さが毛筋の果てまで滲み透る。
再び『君が代』である。
足元の畳に、大きな音をたてて、私の涙が落ちて行った。
私など或る憲味に於て、最も不逞なる臣民の一人である。その私にして斯くの如し。
全日本の各家庭、各学校、各会社、各工場、各官庁、各兵営、等しく静まりかえって、これを拝したことであろう。斯くの如き君主が、斯くの如き国民がまたと世界にあろうか、と私は思った」『夢声戦争日記 抄――敗戦の記』)
無声映画の弁士・漫談家・作家・俳優として多方面で活動した日本の元祖マルチタレントの徳川夢声は、玉音放送を聴いたときの衝撃を上記のように描写した。



