「一億円まで出す。大和民族の純血を守るのに一億円は安い」

 1945年、進駐軍の受け入れを進めた敗戦後の日本政府。その取り組みの中には、進駐軍の強姦などを防ぐための「慰安施設」の設置も。しかし1年も満たないうちに同施設の「進駐軍兵士の出入り禁止」が告げられた理由とは? 1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約締結によって国際社会に復帰するまで、焦土から復活へと向かう混沌と激動の日本の姿を、250点の貴重写真でたどる新刊『写真が語る敗戦と占領』(太平洋戦争研究会/筑摩書房)より一部抜粋してお届けする。

日本人女性と踊るGHQの通訳・翻訳官と軍人たち(写真:筑摩書房『写真が語る敗戦と占領』より)

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進駐軍向けの売春施設RAA

 玉音放送が流れた一九四五(昭和二〇)年八月一五日、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。後任には皇族の東久邇宮稔彦王に組閣の大命が降り、一七日に東久邇宮内閣が発足した。新内閣がまずやるべきことは、米軍の進駐を受け入れることだった。

 日本は戦時中、国民に対して「鬼畜米英」と散々に敵意をあおった。同時に日本軍はその占領地で略奪や強姦など数々の蛮行を働いてきた。今度は進駐軍によって同じ仕打ちを受けるのではないか、特に婦女子が酷い目に遭うのではないか。そう考えた日本側の動きは早かった。

 東久邇宮内閣発足の翌一八日に内務省は「外国軍駐屯地に於ける慰安施設について」を通達した。いわゆる「RAA(Recreation and Amusement Association)=特殊慰安施設協会」の設置である。慰安施設といっても、つまりは進駐軍向けの売春施設だった。

 設立資金となる3300万円(当時の国家決算の〇・一パーセント強)は、のちに総理となる池田勇人大蔵省主税局長の協力によって融資された。戦後直後の国家予算はGHQの監視下にあったため、具体的には大蔵省が直接予算を計上するのではなく、民間金融機関に対する融資保証や口利きを通じて資金を調達した。池田は「一億円まで出す。大和民族の純血を守るのに一億円は安い」と語ったという。