この企画展は、中国新聞社など報道機関5社の主催で、各社のカメラマンや市民らが撮影した原爆投下直後の写真など約160点と映像2点を公開している。ご一家は、中国新聞社の担当者から説明を受けながら、原爆投下後の市街地で激しいやけどを負った市民の様子を撮影した写真などを真剣な表情で見て回った。
「やはり核はなくならないといけないのですね」
秋篠宮さまは、爆心地から2.2キロ地点の写真を見て、さらに、放射線が人体に及ぼす影響に触れながら、「かなり爆風が強かったんですね」「やはり核はなくならないといけないのですね」という思いを口にした。また、悠仁さまは「写真や映像が持つ情報の多さや力を感じました」との感想を述べたという。
展示されている「きのこ雲(さく裂1~3分後)」の写真は、地上から最も早く捉えたきのこ雲の写真である。「きのこ雲」とは、原爆の爆発などで発生する巨大なキノコ状の雲のことである。当時17歳の山田精三さんが、爆心地から約6.5キロ離れた広島県府中町の水分峡(みくまりきょう)で、原爆のさく裂から約2分後に撮影したものだ。企画展のカタログは次のように説明している。
《1945年8月6日午前8時15分に米軍が広島市に投下した原爆は、島病院の上空約600メートルでさく裂した。直後に発生した火球の中心温度は摂氏100万度を超え、爆心地周辺の地表は3000度から4000度、爆風は秒速約280メートルに達したとみられている。そこに生身の人間がいた。何が起こったのかも分からぬまま瞬時に焼かれた。爆心地から2キロ以内の建物ほぼ全てが破壊し、焼き尽くされた。(略)》
7月30日、秋篠宮ご一家は、東京・元赤坂の赤坂東邸で、沖縄の小中学生35人と懇談した。沖縄から派遣された小中学生たちが、東京都内で「豆記者」として、記者の仕事を体験するものだ。宮内庁によると、秋篠宮さまたちは約30分間、取材活動や東京滞在中の様子、沖縄の自然や文化などについて聞いたという。
先の大戦末期、沖縄に侵攻したアメリカ軍と旧日本軍との間で 国内で唯一、住民を巻き込んだ激しい地上戦が行われている。この沖縄戦で、一般住民や軍人の戦没者は約二十数万人(推計)にものぼるとされる。
1963年から、本土と沖縄の小中学生が相互訪問する「豆記者」の派遣制度が始まったが、沖縄の人たちがたどって来た長くけわしい道のりに、深く思いを寄せる上皇さまやそのご家族と「豆記者」たちとの交流は続き、平成では現在の天皇、皇后両陛下に、令和になってからは、秋篠宮ご夫妻に引き継がれている。
秋篠宮家では、夫婦や親子が別々に、分担しながら公務に取り組むことが多い。それは「より多くの公的な活動を行うため」だとされる。たとえば、今年6月に行われた産経児童出版文化賞の贈賞式には、ブラジルを公式訪問中だったの佳子さまに代わって、紀子さまが出席している。
そんな中、前述したように「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」には家族全員が揃って訪れている。こうしたところにも筆者は、戦争の記憶をきちんと子どもたちに伝え、平和な世の中を守っていきたい、という秋篠宮さまの強い思いを感じている。
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