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あの傲慢さは何から生まれたものなのか?

 この「生真面目さ」というキーワードはほんとうに重要だと思う。

 オウム事件のときに20代だった私は当時リアルタイムで考えたことを自分の本に書いたことがある(『教養としてのプロレス』双葉文庫)。

《オウム事件が起きたとき、事件の中心となった信者たちと世代が近かった私はどこかむず痒かった。私たちの世代には学生運動がなかった。本来なら、そこで「発散」されていたはずの「若気の至り」がオウムにハマる事態になったのではないかと思ったのだ。誤解を恐れずに言えば、オウムの若者たちは不良どころか、むしろ真面目に近い存在であることをなんとなくわかっていた。だからこそ「たちが悪い」。》

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麻原彰晃と信者たち ©文藝春秋

《自分たちがストイックに信じるモノ・価値に対し「なぜ世間はわかってくれない?」と苛々する気持ちは「自分以外はすべて馬鹿」という極論に豹変しやすい。純粋で硬直化している頭には「タメ」がなく一気に過激に変貌する。純粋と傲慢は紙一重なのである。あの傲慢さとはそういうことだ。世の中に受け入れられない若者が陥る極端な姿だ。》

 あの頃私はこのように考えていたのだが、最近ふと思う。あの傲慢さは若者だけでなく現在はどの世代にもまんべんなく浸透していやしまいかと。

死刑執行翌日の朝刊各紙が指摘したように

 SNSが日常になればなるほど、「善か悪か」で二分しがちであるほど、自分の正義を疑わなくなればなるほど、「自分以外はすべて馬鹿」という態度があふれる。

 それはつまり死刑執行翌日の朝刊各紙が指摘したように、「正義」と信じて他人を攻撃することであり、共同体の外には平気で罵詈雑言を浴びせる事態であり、排他的で独善的な主張を振りかざすことである。

 自分以外はすべて馬鹿。この傲慢と生真面目の暴走こそ今も残る「オウム的なもの」なのではないか?

 せめてそういう時代は「自分以外はすべて利口」と考えてのぞんだほうがよいのかもしれない。少しくらいのん気に屁をこいていたほうがよいのかもしれない。

今回オウム記事をじっくり読んでみて、痛感したことである。