7月6日、一連のオウム真理教事件をめぐり、死刑が確定していた教祖・麻原彰晃(本名・松本智津夫)の死刑が執行された。ジャーナリスト・青沼陽一郎氏はかつてオウム裁判を継続して傍聴し、麻原の意見陳述、長きにわたる沈黙、そして死刑宣告の瞬間に立ち会っていた。その手記を『私が見た21の死刑判決』(文藝春秋)より一部抜粋する。

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「日本語でしゃべりなさい」

 初公判からちょうど1年が経った、97年4月24日だった。

 ようやく念願が叶って、教祖に意見陳述の機会が与えられた時のことだった。

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 証言台の前に立った教祖は、以前のような覇気のある態度は感じられなかった。不規則発言も、いつしか自分の世界の中に閉じこもって、架空の世界の問答を繰り返すような独り言をぼそぼそ発するようになっていた。例えるなら、昼間からお酒を呑んで、路上で独り愚痴を零しているホームレスのような存在になっていた。

拘留尋問を終え、警視庁に戻るオウム真理教の麻原彰晃 ©時事通信社

 そんな教祖が法廷に響くマイクを前にして、蚊の鳴くような声でぼそぼそやりはじめた。起訴された17事件について、自分の思うところを述べているようだがよく聞こえない。意思疎通のはかれなくなった弁護人から、裁判所、検察、それに傍聴席も息を殺すように、よくよく耳をすませば、なんと教祖は英語をしゃべっていた。それも、簡単な単語を並べただけのような、いわゆるブロークン・イングリッシュだった。

「日本語でしゃべりなさい。英語しゃべれるんでしょうけどね。ここは法廷だから」

 阿部裁判長の優しい問いかけに、はじめは無視していた被告人もやがて、英語のあとに日本語訳を話すようになった。もっとも、難しい英単語は彼にも使いこなせないようで、そのほうがずっと便利だったに違いない。

 おそらく、これが本邦初の歪曲英語発言による罪状認否だった。

 それも声を小さく、常に自分の発言に注意を向けさせる。

 日本中が注目する中で、誰も予想もつかない奇想天外な手法で、あ! と言わせる。常識を超え、あらゆる人々の注目を浴びながら、いい意味でも悪い意味でも、見事にその期待を裏切ってみせる。そうすることで、人々の驚きと失笑をかい、更に脚光を浴びる。本人は意識せずとも、天才的なコメディアンとしての資質。もしくはエンターティナーとして持ち合わせた才能。

 その時に、ぼくはこう確信したことを思い出す。

 この男は最終解脱者なんかじゃない。

 まさに“最終芸達者”なのだ! と。