「ぶっそうだったねぇ。パンパンもハニー(オンリーの娼婦の意味)もまだそんなにいなかったから、アメリカーは女漁りにくる」
第二次世界大戦後、沖縄では米兵によるいくつもの犯罪・事件が起きていた。中には、夜な夜な「プッシュ(=性交の意味)オーケー?」と民家を訪れ、人妻や若い娘たちを拉致し、もてあそぶこともあったという。
そのうち、人妻を拉致した米兵を地元住民が追いかける騒動に発展し、最終的に被害女性が亡くなった事件について『証言記録 沖縄住民虐殺 日兵逆殺と米軍犯罪 〈新装版〉』(佐木隆三著、徳間書店)のダイジェスト版よりお届けする。
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第二次世界大戦後、米軍に占領された沖縄では、米兵による婦女子への暴行事件が多発していた。1947年9月、現在は沖縄市の一部である越来(ごえく)村字安慶田(あげだ)で起きた「奥間シゲコさん殺人事件」は、そうした占領下の実態を象徴する事件である。この事件では、授乳中だった27歳の主婦・シゲコさんが米兵にピストルで脅され拉致された。
ビューンビューン弾丸がかすめるのをくぐって、近づいたんだ
当時の沖縄では、米兵から女性を守るため、住民たちが鐘やドラム缶を鳴らして集まる自警団的な活動が行われていた。事件当夜も、シゲコさんが拉致されると、すぐに住民たちが集結した。
この事件で特に勇敢だったのが、復員軍人の屋宜盛永さん(当時33歳)だった。屋宜さんは事件当日について次のように振り返る。
「つまらん話だけど、わしは後妻をも離縁して、3日目だった。ムシャクシャしておってねぇ。わしはしみじみ、なんで生きて帰ったのかと考えとった。いっそインドネシアで死んでおればよかったと……。そんなとき、ガンガン鐘をたたく音だろ、そりゃ真っ先に飛び出すさ」
屋宜さんはシゲコさんを拉致してキビ畑に逃げ込んだ米兵がピストルを発砲しても、ひるまず追いかけた。「わしはキビの下を匍匐(ほふく)前進、ビューンビューン弾丸がかすめるのをくぐって、近づいたんだ」(屋宜さん)。結局、犯人は4〜5発のピストルを撃った後、軍警察(MP)に捕えられた。
しかし、シゲコさんは米兵にピストルで頭部を殴られており、病院に運ばれるも翌朝に内出血によって亡くなった。
当時の沖縄は男女比がアンバランスだった
占領下の沖縄では、男女比がアンバランスだった。『沖縄大観』によれば、1946年1月15日調べで、男女比は21~25歳で17対83、26~30歳で22対78、31~35歳で28対72、36~40歳で29対71、41~45歳で29対71という状況である。
米兵による悪質な“夜遊び”には、こうした点が背景にあったのかもしれない。「ぶっそうだったねぇ。アメリカーは女漁りにくる。特に黒人があばれるんだ。崖の上の馬上(マーウイ)部隊は黒人ばかりだから、夜になるとあそこから、いたずらをしに現われる」と屋宜さんは当時を振り返る。
この事件は、占領下の沖縄で住民が団結して犯人を逮捕にこぎつけた珍しいケースだったという。
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シゲコさんが拉致された際の緊迫した状況や、逃げる米兵と追う地元住民たちの争いなど、詳細な内容は以下のリンクからお読みいただけます。
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