第二次世界大戦後、米軍が占領した沖縄が日本に復帰するまでには米兵によるいくつもの犯罪・事件が起きている。例えば、1940年代後半には米兵が夜な夜な民家を訪れ、人妻や若い娘などを拉致し、もてあそぶ事態が横行していた。

 中でも1947年9月に起こった「奥間シゲコさん殺人事件」は、拉致した米兵を地元民が追いかけ、騒動が起きている。『証言記録 沖縄住民虐殺 日兵逆殺と米軍犯罪 〈新装版〉』(佐木隆三著、徳間書店)より一部抜粋し、お届けする。(全3回の3回目/最初から読む

数多くの米軍基地がたてられた沖縄。画像は1974年12月時点の状況(書籍より転載)

 

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米兵は巡査から奪ったピストルでシゲコさんを脅し、拉致した

 男という男は、総出だった。『沖縄大観』によれば、1946年1月15日調べで、男女比は21~25歳で17対83、26~30歳で22対78、31~35歳で28対72、36~40歳で29対71、41~45歳で29対71と極端なアンバランスで、46~50歳で40対60といくらか回復している。

 事件があったのは、この調査から1年半後のことだから、軍隊からの復員で男の数がふえたかもしれないが、同時に本土疎開の婦女子も46年後半から引き揚げてきているから、やはり男女比はこんなものだったのではないか。

――当時17歳で、自治活動なんかは関心ないほうだったが、鐘が鳴ったときだけは、パーッと飛び出した。あのときは、キビ畑を遠巻きにしていたら、パーンとピストルが鳴った(農業・仲村渠〈なかんだかり〉盛市さん)。

――わたしは小学校4年生だったが、やっぱり外へ出た。おじいちゃんといっしょに、ピストルの音を数えたのを憶えています(コザ市復帰対策課長・神里興信さん)。

――そのピストルは、巡査が奪われたものだった。CPといってね、若くて元気がよければ、米軍はだれでも任命する。しかし訓練をうけているわけでもないし、あっさりとピストルを奪われた。名前は宜次(ぎし)巡査だった(中頭地区教職員会文化室長・城間喜春さん)。

 シゲコさんを拉致した兵隊のピストルは、巡査から奪ったものだった。いわば自警団の村人たちは、日頃からCPをあてにしていない。米軍は上陸直後から、占領区域に自治体をつくらせ、メアー(村長)とCPを任命する。文字の読めない村長が出現したこともあり、石川市の初代警察署長はタクシー運転手、那覇市の警察署長はナベ・カマ修理屋だった(『沖縄の証言』)。