第二次世界大戦後、米軍が占領した沖縄が日本に復帰するまでには米兵によるいくつもの犯罪・事件が起きている。例えば、1940年代後半には米兵が夜な夜な民家を訪れ、人妻や若い娘などを拉致し、もてあそぶ事態が横行していた。
中でも1947年9月に起こった「奥間シゲコさん殺人事件」では、授乳していたシゲコさんを米兵がピストルで脅し、小屋から連れ去ると、追いかける市民たちと争いが起きている。『証言記録 沖縄住民虐殺 日兵逆殺と米軍犯罪 〈新装版〉』(佐木隆三著、徳間書店)より一部抜粋し、お届けする。(全3回の2回目/続きを読む)
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騒ぎを知って、すぐ表へ飛び出した屋宜さん
小屋には、政栄さんの父親・政喜さんもいたが、マラリアに苦しんでおり、大声をあげる力さえない。政喜さん(当時49歳)も戦前、ペリリュー島へ行ったことがある。
飛行場工事の最終募集があったので、1年1カ月そこで働いて沖縄へ帰った。戦争のときは家族とともに北部の山原へ避難して戦火を逃れることはできたが、奥さんは死んで、生き残った政喜さんはマラリアに感染したのである。当時マラリア患者は10万人以上いたといわれ、いずれも沖縄戦のさなか、栄養不足で山中や地下壕を逃げまどっているときにかかったのだ。
屋宜盛永さん(当時33歳)は、騒ぎを知って、すぐ表へ飛び出した。前章で述べた復員から満1年、出身地の安慶田へ帰って、農業を始めていた。収容所から帰村を許されていた留守家族は、すでに屋宜さんは戦死したものと思い新しい生活を始めていて、復員軍人の彼には荒れ果てた郷里の姿とともに、二重のショックだった。
「安慶田は日本世(戦前の意味)のとき85世帯の部落だったのに、ずいぶんふくれあがってねぇ。事件のころ、安慶田だけで26班あった。1班130世帯のところもあったから、どのくらいの人口だったか……。
みんなトタン拾ってきて掘立小屋だが、わしの家は焼けなかったので助かった。それでも、土地の者も他所者も区別せず、農業班をつくってイモとキビを共同作業で作り、分配していた」



