事故のことを話したこともありませんが、もしかしたら、慶子はまだ、あの事故について心の整理ができていないかもしれません。事故に遭い、目の前で家族が死んでいくという経験は私の想像を絶しています。慶子の脳裏には、今でも、あの日のことが鮮明な映像として残っているでしょう。忘れようと思っても決して忘れられない出来事であり、それについて語ることが慶子にとってどんなに辛いか、私にはよく分かります。

 しかし、前を向いてこれからの人生を歩んで行こう、という気持ちは慶子も私も同じです。

 積極的に忘れ去りたいという気持ちになったことは一切ないですが、30年という時を経て、私はようやく、事故をひとつの「過去」として捉えることができるようになりました。この先もずっと続いていく人生という長い階段の「次の一段」をのぼるためにも、私は川上家の長男として、この30年間、私たち兄妹が事故とどのように向き合ってきたかを語りたいと思います。

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川上千春さんが亡き母への想いを込めた詩

私だけ旅行に行かなかった理由

 父、母、慶子、咲子の4人が北海道旅行に行った日のことは、今でもよく思い出します。1985年の夏休みの真っただ中、私は中学2年生でした。みんなで計画していた北海道への家族旅行。結局、私だけが行きませんでした。

 当時、私は野球部に入っており、両親には「部活の練習があるから俺は行かない」と言っていましたが、特に野球に真剣に打ち込んでいたわけでもなく、ベンチ入りすら出来ていない補欠以下の選手でした。おそらく、「家族旅行なんかよりも友達と遊んでいた方がいいや」という、ちょっとした反抗期みたいなものだったのだと思います。4人が旅行に発つ時も見送らず、私が先に家を出て部活の練習に行きました。

この続きでは、事故後の人生を川上千春さんが振り返っています》

※本記事の全文(約9000字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(川上千春「独占手記 妹・川上慶子 奇跡の生存者と私の30年」)。全文は下記の内容をお読みいただけます。
・「慶子が無事だった……」
・兄として、この家を守る
・母に贈った詩
・結婚式での笑顔

最初から記事を読む 《日航ジャンボ機墜落から40年》「私は徐々に高校の授業に出なくなり…」“奇跡の生存者”川上慶子さんの兄が綴った“事故後”の人生