乗客520名が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から40年が経過しました。「文藝春秋」は、“奇跡の生存者”と呼ばれた川上慶子さんの兄・千春さんの手記を、事故から30年目にあたる2015年に掲載しました(「文藝春秋」2015年9月号)。そこには、父母と末妹を亡くした兄妹の人生がありのままに綴られていました。その冒頭部分を紹介します。
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「人生なんてどうでもいい。いつ死んだっていい」
1985年8月12日18時56分、群馬県多野郡上野村の御巣鷹山に「日本航空 123便」が墜落し、乗客乗員520名が亡くなる事故が起こりました。
あの便には、私の父親の英治(当時41)、母親の和子(39)、そして慶子(12)、咲子(7)という2人の妹が乗っていました。慶子は奇跡的に助かりましたが、両親と咲子は亡くなりました。
事故以降、私は、当事者である慶子以上に精神的に不安定だったと思います。人生なんてどうでもいい。いつ死んだっていい。そう捨鉢になって生きてきました。
しかし家族、そして子供ができたことで、私は変わりました。やはり、結婚して、新たな家族ができたという経験をしたことが大きかったのかもしれません。自分を無条件に慕ってくれて、大事にしてくれる人たちが周囲にいることは、私の精神状態を安定させてくれました。一緒に生きる仲間がいることの大切さに、大人になってやっと気が付いたのです。
至らない人間なりにベストを尽くして家族を守っていかないといけん。頑張って生きていかないといけん。
親となり、身体の中からこういう感覚が徐々に湧きだしてきたのです。単純に時間の量だけで計れるものではないかもしれませんが、事故と正面から向き合って自分の中で整理ができるまでに、30年という月日が必要だったのかもしれません。
現在、私は3人の子供たちに囲まれて、島根県で暮らしています。かつて、両親、私、慶子と咲子の5人が暮らしていた家に、今は私の家族が住んでいます。そして、慶子も同じく三児の母親として子育てに奮闘しています。
慶子とは、両親と咲子と過ごした時のことを語り合ったことはありません。しかし、川上家が三人兄妹だったことは、口に出さなくても、私たちの中では大切なことだったのです。2人とも自然と「大きな家族を作りたい」と思っていたのだと思います。近い将来、3人との思い出を語りながら、慶子と「理想の家族」についてゆっくりと話せる時が来ると信じています。
