2025年8月12日、乗客520名が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から40年が経過しました。「文藝春秋」は、“奇跡の生存者”と呼ばれた川上慶子さんの兄・千春さんの手記を、事故から30年目にあたる2015年に掲載しました(「文藝春秋」2015年9月号)。そこには、父母と末妹を亡くした兄妹の人生がありのままに綴られていました。節目を迎えた今日、その一部を紹介します。

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母に贈った詩

 事故の翌年、8月3日に上野村で行なわれた追悼慰霊祭には慶子以外の親族で参加し、御巣鷹山に登りました。事故現場は物凄い山奥でした。鬱蒼と生い茂った森林の中、足場もほとんどないような獣道を、4人が乗っていた日航機が墜落した尾根まで、1時間以上かけて目指し、ゆっくりと登ってゆきました。そして、尾根に着くと、鹿児島の伯父たちが用意した、3人の名前が入った墓標を建てました。その後、私は、何十回とこの場所を訪れることになります。

日航ジャンボ機墜落事故で捜索に向かう自衛隊員 ©時事通信社

 慶子が初めて御巣鷹山に登ったのは、その1年後、事故から2年経った年の10月のことです。高校1年になっていた私も含め、親戚一同でお参りに行ったのです。慶子と一緒に御巣鷹山に登ったのは、その1回きりです。

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 慶子は当時、同行した報道陣に腹を立てていたようです。私たち遺族にとって、御巣鷹山は家族が亡くなった神聖な場所。報道陣の方々にお参りする気持ちが少しでもあれば別ですが、仕事とはいえ、遠慮なく入ってきて、慶子の写真をたくさん撮って帰っていくことには、私も強い抵抗感を覚えました。本当は、家族だけで静かにお参りをしたかったのです。

 慶子と2人で、前年に建てた墓標の隣に、新たな墓標を一つ建てました。

〈一人は万人の為に 万人は一人の為に〉

 父が生前好きだった言葉です。

 それから、慶子は徐々に元気を取り戻して、元のように陸上部の活動に打ち込むようになり、我が家には普通の日々が戻りつつありました。