一方の私は高校では進学クラスに入り、部活は幽霊部員でしたが、一応、文芸部に所属していました。慶子と一緒に御巣鷹山に登った高校1年の秋口のことです。島根県で『お母さんの詩コンクール』というイベントが開催されました。文芸部の先生に「川上君、出してみんかね」と言われたので、母の思い出と事故の描写を交えた詩を作って応募しました。タイトルは『ぼくの宝石』。私なりの思いを込めた詩でしたが、なんと、これがコンクールの最優秀賞に選ばれたのです。天国の両親も喜んでくれたのではないかと思っています。
「私は徐々に授業に出なくなりました」
翌年には、慶子が私と同じ高校に入学してきました。慶子はテニス部に入り、部活漬けの日々を送ります。
しかし、高校2年くらいから、私は徐々に授業に出なくなりました。実は、慶子と一緒に御巣鷹山に登り、母に関する詩を書いてからというもの、「今まで自分を支えてくれていた両親はもういない」という現実に改めて直面し、常に断崖絶壁を背に立っているような不安感に付きまとわれていました。張りつめていた気持ちがポンっと弾けてしまったのかもしれません。慶子は、部活も勉強も頑張っているのに、一体、自分は何をやっているんだろうか……。それからはずっと家に籠り、あまり外にも出なくなりました。
結局、私は出席日数が足りず、高校を3年で卒業することができませんでした。4年目は通信課程に転入して、慶子と一緒に高校を卒業しました。
慶子は、看護師養成に特化した大阪の短大に進学することが決まり、高校卒業後すぐに家を出て、大阪の親戚宅で下宿を始めました。祖母は数年前に脳梗塞を患って入院していたため、私は家に一人ぼっちで暮らすことになりました。おまけに大学受験に失敗した浪人生。予備校にも出たり出なかったりで、本当に荒んだ生活を送っていたと思います。
今振り返れば、その頃の私は、鬱病だったのだと思います。慶子は、事あるごとに電話をしてきて声をかけてくれたり、伯母や伯父に「お兄ちゃんは大丈夫? 様子を見てきてくれない」と相談もしてくれていたようです。
塞ぎ込んでいた私とは異なり、慶子は、目標に向かってコツコツと努力をしていました。慶子が看護師になろうと思った第一の理由は、やはり母親が保健師だったことだと思います。
※本記事の全文(約9000字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(川上千春「独占手記 妹・川上慶子 奇跡の生存者と私の30年」)。全文では下記の内容をお読みいただけます。
