「朝は釣り、夜は宴会で野球拳」

 三重県志摩市の離島・渡鹿野島。なぜこの小さな島は“売春島”と呼ばれるまでになったのか。江戸期の風待ち港文化、予科練の記憶、そして4人の女性――断片をつなぐと、島の誕生までの歴史が浮かび上がる。

 ノンフィクションライターの高木瑞穂氏の新刊『ルポ 風俗の誕生』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む

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「売春島」と呼ばれた渡鹿野島(写真:著者提供)

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売春でお駄賃をもらう女性たち

「でも船乗りにすれば、野菜だけでなく、『すまんけどなぁ、服も破れとるから縫ってくれんか?』『汚れた服が溜まっているから洗ってくれんか?』と。そうして縫い物や洗濯など身の回りの世話もしたという話だ。はたまた自分の相手(売春)もさせお駄賃をもらったと。それなら菜売りは女性がいい。ということで島の住民たちは多くの養女を受け入れた。その養女を菜売りの仕事に就けさせた。そうしたうまみの部分も生活の足しにしながら生きてきた歴史がある」

 カネが介在していたかどうかはわからないが、女衒たちがしたように、娼婦は外部から連れてきた養女だったというのだ。

「だからね、もともと渡鹿野に住んでいた人たち以外に、菜売りをさせるため養女にもらった人たちも多いし、その養女を気に入り船乗りたちが嫁にもらった。その船乗りが船を降りてこの島で生活するようになったという人もいるし。だから島にはいろんな出所の人たちが暮らしている。歴史を辿ればもともと島で暮らしていた家系は少ない。

 土地にしても、昔はもっと狭かったんだから。いまでこそ海を埋め立ててこうして少しは広くなったけど。海岸線は100メートルほど奥まったところだったから。ほら、いまでも防波堤の名残があるでしょ? 僕が幼かったころは、防波堤の前は海だからね。その昔はもっと後ろだったと聞いているし。

 本来は小さな島だし、昔は人口が少なかったと思うのは、この島はね、離島だけにね、神様をよく祀っていたんだな。僕にね、この島は『神様の島だ』という観念ができたのは、『五社対人記録』という大昔の文献があって、その記録書によれば当時の天皇との結びつきが書かれていた。故に渡鹿野の神社の登記は御領地になっている。御領地といえば天皇家の持ち物。調べると4か所ほどあった。だからその4か所では神様を祀っていたんだな、と。

 いまはもうほとんど払い下げになっていて、残るは1軒だけ。おそらく天皇家とつながっていた証拠だと思うんだけど、5世紀のころかな、反正天皇という方が都での病気の蔓延を案じてオノゴロ島の神様を訪ねたら『ちゃんと神様を祀っていない』というお告げが出た、と。そのオノゴロ島が渡鹿野島になっているわけだよね」