朝は釣り、夜は宴会で野球拳

「江戸時代の記録によれば、当時の人口は300人ほど。つまり江戸時代になり海上交通が盛んになり人口が増え、しかも渡鹿野で半農半漁で生活していた人たちに菜売りでうまみが生じた、と。

 そういう歴史的背景から昭和に至り1958年、売春防止法が完全施行され、その影響でそのあとには旅館が残ったんですよ。僕の記憶では当時、『大阪屋』や『水光館』という古い旅館があってね、夜になればお客さんたちが宴会をする。すると置屋から女の子を呼んで芸者遊びをした。

 だから僕が中学生のころは芸者遊びが盛んだった記憶がある。夜になれば野球拳をしている声が聞こえてくる。それを『煩いなぁ』と思いながらも勉強をやめてのぞいていたんだ」

ADVERTISEMENT

 文献によれば、周辺にあった船宿や置屋の数は、最盛期の幕末で80軒、遊女の数は500人以上いたそうだ。渡鹿野島には遊廓が9軒あり、遊女は21人だったと記されていた。三橋さんが続ける。

置屋のあった島の路地裏(写真:筆者提供)

「またそのころは魚釣りが盛んだった。ウチの親父は八百屋をしていたけど釣り船を出したほうがお金になる時代だった。そうした釣り客も、夜は宴会で野球拳。そして朝になると釣りに出かけた。

 では、なぜ何もないこの島に客が来たかといえば、実はね、終戦間近の1944年ごろ、香良洲(三重県一志郡香良洲町、現・津市)に航空隊があった。

 そこには予科練が駐屯していたんですよ。で、その予科練を渡鹿野に分屯させ的矢湾沿いに潜水艦などを隠すための避難壕をあちこちに掘らせた。特攻のできるふたり乗りの回天のような、ね。

 そうした仕事を予科練がするなか、この渡鹿野に500人ぐらいが泊まった。それもいまでいう民泊をさせた。

 やがて終戦を迎え、500人の予科練たちは実家に戻り全国に散り散りになった。だから渡鹿野が釣りはもちろん、売春も盛んなことは予科練たちが知っているわけよ。そのため、戦後、その予科練たちが当時を懐かしみ再び島に遊びに来ることが頻繁にあった。

 予科練たちはもちろん友だちを連れてくる。そうした口コミもあって売春の話が広まったんですよ。ただし、幼いころは売春があるなんてことはまったく知らなかった。置屋があり芸者を派遣していただけで」