「売春島」が生まれた背景
島が売春島として流布された背景には、そうして遊女たちと遊んだ予科練たちの口コミがあったのだ。他に赤線、青線地帯はあったにしても、解放感がある離島での売春行為に魅せられて、男たちはよりいっそう劣情したに違いない。
「置屋は、その4人が来る前からあったのですか」
「ありました。置屋は江戸時代からずっとあったんです。でも昔は芸妓を置いていた芸妓置屋なんです。いまのように寝転ぶ(夜の相手をする)芸妓だったかは定かではありません。実体験として知っているのは芸者遊びをしていたこと。笛や太鼓を『チンチン、ドンドン』と鳴らして宴会を盛り上げる。その名残として実際、使わなくなった楽器をもらったこともあるよね」
三橋さんの話を、2010年に渡鹿野区より発行された『渡鹿野郷土史』などの文献で裏取りした上でまとめると、次の事実が浮かび上がった。
・江戸時代、はしりがねは渡鹿野島だけでなく的矢や安乗(志摩市阿児町安乗)といった志摩半島の各所に存在していた。
・スナックを隠れ蓑とした置屋は、対岸の鵜方から移住した四国や九州出身の4人の女からはじまった。置屋は江戸時代からあったが、その4人が移り住む以前は芸妓置屋だった。
・置屋文化ははしりがねをルーツとし、渡鹿野では菜売りと呼ばれていた。その菜売り文化は四国の豊島にもあった。芸妓置屋の時代は養女を受け入れ、その養女が船乗りの相手の売春役としてあてがわれていた。
・昭和初期には6軒の芸妓置屋があった。
・1944年ごろには500人の予科練生が渡鹿野島に駐屯した。終戦後、その予科練生たちが方々に散らばり、口コミで売春島としてのこの島の噂が広まった。