野村 そうですよね。
成田 天からの視点や、陰から覗き見ているような視点が入っているのが、この映画の面白さだなと思いました。
野村 そうですね。
成田 世阿弥の言葉で「離見の見」というのがありますよね。演じる本人から見た「我見」と客から見た「離見」に対し、そのどちらでもない第三の眼のような視点から分裂する両者を統合した「離見の見」で見よ、という。今回の映画はカメラやクレーンといった技術による離見の見の実現なのかなとも思いました。
野村 そうやって見ていただけると、世阿弥さんも喜ぶと思います(笑)。
野村万作アバターが600年後も
成田 狂言には室町時代から600年を超える歴史がありますね。それだけ長い歴史によって映像化が可能になったとも言えます。
野村 そうですね。
成田 今からさらに600年後の狂言はどうなっていると思われますか?
野村 未来の狂言……。何をやるにしても「狂言師」としての枠はあると思うんですよね。
たとえば、この着物をくれた観世寿夫が主宰していた「冥の会」がベケットの演劇『ゴドーを待ちながら』を上演したことがあって、僕も出てくれないかと頼まれたんだけど、「難しいものはできませんよ」と言って降りちゃったんです。結局、僕の兄(野村萬)や観世寿夫の弟の静夫という方々でなさったんだけれども。そういう前衛劇を狂言や能の人間ができると、僕は思いませんでした。
実はその前にも、岩田豊雄さん、つまり作家の獅子文六さんですが、「『ゴドーを待ちながら』という面白い演劇があるからやってみたらどうだい」と言われたことがありました。「これは狂言師には無理だよ」と僕は思ったんです。だから、何でもかんでもやってきたわけではなくて、やはり見境をつけながらやってきたつもりなんです。
成田 ただ、万作さんは生涯を通じた演技・作品が映像として残る最初の世代でもあります。それは600年後に向けて残っていきますよね。その映像をデータとして食べた万作さんのAIアバターが600年後も演じているのではないかと。良いことなのか悪いことなのか分からないですけれども。
野村 “残す”という精神はいいのですが、“残っちゃう”となるとちょっと違う。
《この続きでは、狂言の未来について野村万作さんの願いが語られています》
(構成 伊藤秀倫)
※本記事の全文(約1万1000字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(成田悠輔の聞かれちゃいけない話 第8回)。
地元の先輩後輩
「東京の狂言は堅すぎて能のようだ」
狂言と異物の融合
キツネの着ぐるみとお坊さんの衣装で長丁場
「美しい野球」に通じるもの
美しく手刀を切る相撲取り
スクリーンに向かって「音羽屋!」「橘屋!」
「額を撫でる」という反逆
「最後の狂言」があるとしたら?


