有名な禅の公案に「婆子焼庵(ばすしょうあん)」というものがある。
とある老婆が小さな庵を建てて若い修行僧を長年養っていた。ある日、修行僧は若い娘に誘惑されるが、敢然と拒絶。老婆はそれに激怒して僧を追い出し、庵も焼いてしまった……。
公案は正解が提示されているものではないから、修行僧がどう振る舞うべきだったかはわからない。ハッキリしているのは、禁欲の道の険しさである。
こんなことを考えたのは、『読むだけでグングン頭が良くなる下ネタ大全』を読んだからだ。同書には自らのセックスで子どもがどうしてできるのかを探ったアリストテレス、おしっこにまつわる俳句をいくつも残した正岡子規といった、下ネタトリビアが載っている。中でも目立つのが、禁欲に関するエピソード。
インド独立運動を主導したマハトマ・ガンディーは、全裸の女性と寝床を共にしながら、それでいてセックスせずに禁欲を貫いた(本当に?)。思想家のジャン・ジャック・ルソーは熱心なオナニー害悪論者。コーンフレークはケロッグ兄弟によって性欲減退食として開発された……。
だいぶトンチンカンなエピソードも多いが、それだけ人類は禁欲に熱心だった。理由の多くは宗教だ。時代を代表する思想家がオナニーの害を説いたり、性欲減退食を開発しなければならないほど、人々に禁欲をさせるのは大変だった。
現代日本では、宗教上の理由で禁欲を強いられることはほとんどない。オナニーも自由だ。が、かといって奔放で良いわけでもなく、一定程度は抑制的でなければならない。浮気をした芸能人は完膚なきまで叩かれるし、普通のおじさんもうかつな発言ひとつでセクハラ認定を受ければすべてを失う。禁欲は意外と現代的なテーマでもあるのだ。
一方で、下ネタは知的好奇心の原点でもある。小学生の時分を思い出してほしい。ウンコおっぱいおちんちんと聞くだけで盛り上がる男子がいたことを。リアリティのない言葉遊び程度だが、だからこそ強い憧憬を抱くお年頃。そんな男子も少しずつリアルで生々しく、うんちくなど何の役にも立たない世界を知って、オトナになってゆく。
けれど、すべては小学生時代に抱いた純粋無垢な下ネタへの興味関心からはじまった。『下ネタ大全』は、そんな無垢な下ネタへの好奇心を呼び覚ましてくれる。そう、下ネタが大好きだっていいじゃない、と。さらに下ネタは、人類の歴史そのものへと繋がってゆく。
嗚呼、深遠なる下ネタの世界。そしてそこからはじまる知的冒険へ。とめどなく溢れる性欲と、相反する禁欲の戒律。それに身悶えしながら歴史を紡いできた。
「婆子焼庵」の修行僧はうわべの禁欲ではなく、心の葛藤を受け入れて苦しむ姿を見せるべきだったのかもしれない。それが人類が歩んできた歴史なのだから。
ほりもとけん/1992年生まれ。北海道出身。慶應義塾大学理工学部卒。専攻は情報工学。作家、YouTuber。YouTubeチャンネル「ゆる言語学ラジオ」で聞き手を務める。著書に『教養悪口本』など。
そいりまさし/1981年東京都生まれ。ライター。著書に『終着駅巡礼』『トイレと鉄道』『ナゾの終着駅』など。
