連続ドラマ『北の国から』の企画が動き出したのは1970年代の終盤。後期高度経済成長を経て都市部に人口が集中し、地方が過疎化の一途をたどりはじめた頃だ。
78年にはディスコブームに由来する「フィーバー」が流行語となり、79年には現代的で都会的なセンスを讃える「ナウい」という言葉が流行った。のちに「シティ・ポップ」と呼ばれ現在も世界各地で愛聴される音楽ジャンル(当時は「ニューミュージック」とカテゴライズされた)もこの時期に隆盛した。誰もが「都会」や「都会的なもの」に憧れた時代だった。
つまり、黒板五郎(田中邦衛)が東京から我が子を連れ、生まれ育った北海道・富良野の麓郷に帰郷し、電気も水道もない片田舎で生活するという筋立ては、当時の時流に逆行するものであり、強烈なアンチテーゼだった。この形に落ち着くまでにも、フジテレビ側と脚本家・倉本聰氏の間で一悶着あったのだという。
「それっぽく見えればいい」というテレビ局の意向に抵抗して…
当初倉本氏はフジテレビから、ロサンゼルスからロッキー山中に移住した家族が大自然の中で生きる姿を描いた映画『アドベンチャー・ファミリー』(77年)に似せたドラマを北海道を舞台に作れないか、と打診されたという。
しかし北海道にロッキー山脈に相当するような場所はない。倉本氏がその案を一蹴するとフジテレビ側は「偽物でかまわない」、つまり都市部の視聴者から見て「それっぽく見えればいい」と食い下がった。
これに倉本氏は激怒。「地元の人が見ても納得する内容でなければならない」と自ら企画書を書き、北海道の厳しい自然の中で生きる人々の姿を、極限までリアリティを追求して描くドラマの草案が出来上がったという。どんな時代も「名作」と呼ばれる作品の陰には必ず「戦い」があった。
そしてこのリアリティこそが『北の国から』の屋台骨であり、本作が不朽の名作と呼ばれる所以である。
