『北の国から』の作劇の中心には「自然への畏怖」と「人間の可笑しさ」という2本柱がある。このドラマの登場人物の中には聖人君子もスーパーマンもおらず、誰もが不完全で弱くて、しくじるし、やらかす。

「大自然という存在を前にすれば無力なもの」という前提において、すべての人間は平等だ。人々は常に自然に試され、鞭打たれ、ときにその大きな懐に包み込まれる。

田中邦衛さん ©文藝春秋

シリーズの中で何度も描かれた、重要人物たちの「死」

 シリーズ全9作の中で様々な人の死に様も描かれた。富良野の生き証人・杵次(大友柳太朗)、純と蛍の母で五郎の妻・令子(いしだあゆみ)、純と蛍の兄貴分・草太(岩城滉一)、五郎の親友・中畑(地井武男)の妻で、いつでも黒板家のことに親身になってくれたみずえ(清水まゆみ)など。

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 自然、そして物語という大きなうねりの中で、彼らの死もまた「人の営み」の到達点なのだ。生と死と、性、そして人間の業。人の営みを通じて「命の循環」を泥臭くも色彩豊かに叙述している。

 シリーズ中でこうした「泥臭さ」が最も色濃く出ているのが、この夏再放送された連続ドラマなのである。そして連続ドラマこそが『北の国から』の基盤であり、物語の「土」だ。以降8編続くスペシャルドラマは全てこの「土」に蒔かれた種から芽を出し、木となり、枝葉を伸ばし、実ったストーリーである。つまり連続ドラマを見ておけば、スペシャルドラマの各エピソードの味わいが倍増するというわけだ。

 題材の泥臭さとは裏腹に、『北の国から』の作劇は実に洗練されている。特に連続ドラマ版のシナリオの精緻さはシリーズ9作品の中でも突出していると感じる。後編では、独特な手紙形式のナレーションや有名なシーンの土台となる名場面について、さらに深掘りしていきたい。

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