タイに到着すると、コロナ禍で課されていた隔離期間を経て、上田さんはごみ焼却施設のプラントの電気設備の設定や動作確認を行うこととなった。ただその約1ヶ月後の3月中旬からは試運転班で、「乾燥炊き・RDF燃焼作業」という業務に従事した。これは、ご遺族の弁護士によれば「ごみから生成された固形燃料であるRDFを実際に焼却できるように調整する業務」だが、そもそも、上田さんは電気工学が専門でこれまで電気設備のみを担当しており、赴任してわずか数週間で慣れない業務を担当させられただけでなく、焼却炉は24時間稼働していたため、必然的に長時間の深夜労働も加わることになった。
その中で、上田さんの理解者であった上司が4月に帰国してしまい、質問や助言を得る相手がいない状況に追いやられた。タイ語を話すこともできず、コロナ禍の外出制限も加わり、孤立した状況だったと遺族は主張する。
また、担当していた焼却炉にはトラブルが生じ、その対応のために夜間までの勤務が珍しくなかった。4月末には焼却炉から大量の灰を掻き出す作業によって午前1時過ぎまで働かなければならなかっただけでなく、遺品にあった上田さんの業務ノートには朝4時や5時に機械の状態を記載した計測記録が見つかった。実際に遺族がメールや業務記録などをもとに計算した時間外労働時間は最大で1ヶ月で149時間11分と、過労死ラインを大幅に超えていた。
はじめての海外赴任と長時間労働によって心身ともに疲弊していた上田さんは、2021年4月30日の午後2時20分ごろ、勤務していたプラントの高さ30メートルの位置から、柵を乗り越えて自死した。入社して3年、タイに赴任してわずか3ヶ月後の出来事であった。
「息子さんが昨日、亡くなりました」
もともと「ゴールデンウィーク明けには帰って来る予定」との連絡を受けていた上田さんの母、直美さんは、タイに赴任後には大阪時代と比べてメッセージのやり取りの頻度が減っていたことが少し気がかりだったが、特段心配はしていなかった。しかし、5月1日の朝、直美さんにかかってきた一本の電話で状況が一変することになった。
「昨日(4月30日)の2時30分ころに息子さんがプラントから転落されてお亡くなりになりました。ご遺体をタイで火葬するか、富山にお連れするか教えてほしい」
会社からあまりに突然告げられた息子の死の連絡を直美さんは当初、嘘だと思ったという。それは当然だろう。ボーナスが入ったら家電を家族にプレゼントするような優しい息子が、数ヶ月前までは大阪で元気に働いていたのだ。「夢の中にいるようでした」と直美さんは話す。
しかし会社がそのような嘘をつくわけもなく、コロナ禍の渡航制限と隔離規定が依然として課せられていたため、すぐにタイに向かっても息子と対面することもできないこともわかった。
「現地で火葬というショッキングな言葉に何も考えられなくなりました」と直美さんは振り返る。
エンバーミング(遺体の処置)された遺体が家族のもとに帰ってきたのは亡くなって1週間も経過した後だった。