しかし、一度なくした仕事へのやる気はなかなか戻らず、そのころ持ち上がっていたエイベックスへの移籍の話も保留にしていた。そこへ来て、エイベックスの松浦勝人社長(当時)から米ロサンゼルスへレッスンに行ったらと勧められる。社長は、レッスンへ行った上でそれでも仕事を続けたくなければやめていいと言ってくれた。それならと、とりあえず母を黙らせるため、先のことは帰国してから考えればいいと思い、単身ロサンゼルスへ飛んだ。
レッスン自体は予想以上にハードだったが、周囲のスタッフや先生が自分を期待してのことだと考えると、それに応えなければとの思いが徐々に湧いてきた。このあと、エイベックスのスタッフや社長に誘われてラスベガスやハワイにも足を延ばすうち、アメリカ滞在は予定をオーバーして約1ヵ月におよんだ。そのうちに引退とか移籍とか正直どうでもよくなっていたという。
ただ、実家に残された彼は、娘に仕事を続けさせたい母から別れろというプレッシャーをかけられ、針のむしろ状態であった。結局、帰国後、彼のほうから別れを切り出され、二人の関係に一旦ピリオドが打たれる。
事務所移籍、母親の急逝
こうして2008年、後藤は22歳にして、結婚ではなく母と仕事を選択し、エイベックスへ移籍する。もともとモー娘。時代から、アイドルのダンスというよりは、もっと難しくて、カッコよく見えるものがやりたいと思っていた。モー娘。卒業後の2006年には「G-Emotion」というソロライブを始め、舞台監督やダンサーズチームから刺激を受ける。ダンサーズと一緒にリハーサルをするとあきらかに自分の動きと違うので、「もっと努力しなきゃダメだ」という意識が生まれたという(『日経TRENDY』2025年2月号)。
エイベックスに移籍してからは、所属アーティストが出演するライブ「a-nation」でダンサーとつくるステージの楽しさに目覚めた。ロサンゼルスでのハードなレッスンのおかげで、激しく踊りながら歌っても息が切れなくなっていた。作詞も始め、こういう歌をうたって、こういうふうに見せたいという音楽の方向性も見えてきた。とはいえ、レコードレーベルが急に替わったり、さらには復帰をいちばん望んでいた母親が2010年に急逝し、ライブを中断しなければならなくなったりと、けっして順風満帆ではなかった。

