「投資信託したり外国株を買ったりする人も沢山いました。お金はあるところにはあるんだと思ったものです」

「皆でインチキ賭博をやっていたわけなんですよ」

 いよいよ厳しくなったのは1999年頃から。ノルマを達成できず上司から叱責されるし、性質の悪い顧客から詐欺師呼ばわりされることも。精神的にも不安定になった。

「損失補填しろと怒鳴り込んできた人もいましたよ。実際のところ大手は有力な法人に対して補填していましたからね。皆でインチキ賭博をやっていたわけなんですよ」

ADVERTISEMENT

 そのうち会社の信用不安説が囁かれるようになり、銀行主導で同業他社と合併させられることになった。

「合併と言っても救済合併されたわけだから惨めなものですよ。最初は新しい仲間と共に頑張っていこうと思ったのですが、強烈な合併いじめがありましてね。支店の課長だった先輩が主任に降格されました。過剰なノルマを課され、達成できないとひどく叱責されたこともあり屈辱的でしたね」

 我慢に我慢を重ね2年近く勤めたが、限界に達し退職。このときはまだ31歳と若かったし、それなりの優良顧客を持っていたのでなんとか同業の中堅証券会社に再就職することができた。

 ところが不景気が続きリストラ対象に。再就職して2年半ほどでまた失業の憂き目を見ることに。証券外務員資格を保有していたので地場の小さな証券会社に拾われたが、条件はきつかった。

「正社員ではなく1年契約の渉外営業専任。成績不良なら解雇という条件だった」

 賃金で保証されているのは数万円だけ。あとは歩合というもので諸手当や退職金などはなし。顧客回りに必要な交通費も自腹だった。

「最初の会社にも契約の外務員がいて、その人たちの話ではバブル時代は毎年1200万円ぐらいは普通に稼いでいたそうです。中には支店長クラスの年収2000万円という猛者もいたという話だった。だけど時代も社会情勢も違うわけなので、わたしは年収300万円が精一杯でしたね。いつお払い箱になるかビクビクしていた」

 株価はずっと低迷していたので新しい顧客を獲得するのは困難。売買をする人はそれなりの数いたが、小口の商いなので手数料収入も多くはない。ジリ貧だった。