「ジャイアンツ、優勝できんかったなあ」
「ああ」
「どこが悪いんだ」
「俺が悪かった」

なにも関係がない一ファンたる俺が反省しているところが(熱狂的なファンにはこの心理があったりするのだ)おかしい。

ユーモアを持つ人が好かれる決定的理由

つまりユーモアには、普通なら“こう考える、こうなる”ということに関して、それとはべつな、少しヘンテコな、しかし言われてみれば“それも言えるな”を軽やかに示す要素が含まれているのだ。

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そこにちょっとした知性が感じられるのだ。べつに笑わなくてもいい。笑うとしてもかすかである。

日常において普通とは違う知的なアイデアが浮かぶということ、これが尊い。

社会生活において、ほとんどの場合、予測されることがその通りに流れていくのに対し、この奇妙な、ささやかな抵抗が快い清涼剤になったりして、私はここにこそユーモアが注目され褒められる淵源(えんげん)がある、と考えるのだ。

ささやかな、べつな見方、これが大切なのだ。そしてユーモアを持つ人が好まれ、褒め言葉になるのはこれが思いのほか役立つときがあるからだ。

良いダジャレ、悪いダジャレ

私たちの社会生活において一番繁くこの軽いべつな見方を知るのは、私が思うに“しゃれ”ではあるまいか。言葉遊びの代表である。本当に多い。

先にも触れたが、もともと日本語は音の数が少なく、従って同音異義語や、それに近いものが多く、そのため言葉じゃれが多く語られ、昨今は至るところで眼にする、耳にする。例えば、

「人生にはサカが3つある。上り坂、下り坂、それからまさか、だ」

総理大臣が言ってたなあ。私は、これ大好きだ。90年の人生を顧みて、本当にそう思う。

NHKテレビの天気予報では、珍しい蠟梅(ろうばい)の開花が映り、予報士が「あまり早いので狼狽してます」と周囲は苦笑。他にもテレビの画面に苦笑を散らすケースは多い。

巷間(こうかん)でもこのところのアメリカ大統領について「トランプなのにハートがないね」。確かに温かい心があるかどうか……。