西田は人情に厚く優しい性格で、困った人を放ってはおけない。真っ先に手を差し伸べる面倒見の良い男だった。ハーンに対しても彼が松江に慣れるまでつきっ切りで世話をした。それを恩に着せるような態度は一切見せず、謙虚なところも好ましい。
セツと出会うまでのハーンが最も頼りにしていた人物だった。年齢は12歳も離れていたが、お互いウマがあう。プライベートでも親しくつき合い、何でも腹を割って話せる親友になった。
ハーンと西田は手紙128通ものやりとりを
ハーンが松江を離れてからも手紙でのやり取りがつづいた。西田は結核を患って明治30年(1897)に34歳で亡くなるのだが、それまでの間にハーンが彼に送った手紙はじつに128通にもなる。
「中学校の教頭の西田と申す方に大そうお世話になりました。二人はたがいに、好き合って非常に親密になりました。ヘルンは西田さんを全く信用してほめていました。
『利口と、親切と、よく知る。少しも卑怯者の心ありません。私の悪いこと、みな言うてくれます。本当の男の心。おせじありません。何と可愛らしい男です』と」
「思い出の記」の中で、セツもこのように西田のことを回想している。
『怪談』をはじめとするハーンの作品は、昔話や伝説を創造的に再構成する再話文学と呼ばれるもので、素材となる昔の物語や伝説、民話などを採集せねばならない。その取材活動でも西田にはなにかと助けられた。
出雲神話を取材するハーンを西田がサポート
松江に来てから2週間が過ぎた9月13日、ハーンは杵築(きづき)大社を訪れている。「出雲大社」というのは、明治4年(1871)の近代社格制度制定にあわせてつけた名称で、この頃はまだ杵築大社と呼ばれることのほうが多い。それが延喜式神名帳にも記載された古代からの社号だった。
『古事記』で出雲の神話を読んで以来、大社やその周辺に点在する神話の舞台に興味をそそられている。松江への赴任が決まった時に、いちばん行ってみたいと思った場所だった。しかし、穢(けが)れを嫌う聖域は外国人の立ち入りが制限されている場所も多く、不用意に入り込めばトラブルになる。そこで西田が骨を折って大社側と折衝した。彼は方々に顔が広く宮司の千家尊紀(たかのり)(第81代出雲国造)とも懇意にしていた。西田の助力なしには境内に入ることもできなかっただろう。