たしかに過去には、2007年に当時の長崎市長が射殺された事件で、第一審において死刑判決が出された例がある(上告審で無期懲役が確定)。この事件は加害者が反社会的勢力の構成員であったために量刑が重くなった側面もあるが、それでも政治家を狙った事件は、通常よりも重い量刑が下される傾向がある。
「犯罪を裁く主体は社会である」
こうした一般的な司法の立場とは異なる見解を示しているのが、元弁護士でもある山上の伯父である。私は事件直後から取材を申し込み、以来、定期的に話を聞き続けてきた。
その中で伯父は「犯罪を裁く主体は法律ではなく社会である」という法律家としての持論から、本件は「事件の与えた社会的影響こそ、刑事裁判の量刑判断で考慮されるべき」との見解を私に明かしている。
たしかに、事件をきっかけに「宗教2世」や「宗教虐待」の被害が可視化され、行政が実態調査と解決に向けた取り組みを始めた。また、統一教会との関係を各政治家が解消する動きが進み、政界の浄化が図られるなど、社会がより良き方向に進んだのは事実だ。そうした影響を考慮すれば、比較的短期の有期刑が妥当だとするのが伯父の考えである。
また、この事件は、教団による被害が長らく放置され、法治国家としての機能が失われていると山上が認識した結果、自力救済に踏み切った「合理的誤信による犯行」と捉えることもできる。
だが、長年、被害者を支援してきた渡辺博弁護士でさえもこの見方には懐疑的だ。
「たしかに、事件によってカルト教団の問題は広く認知され、被害者やその家族が置かれる状況も大きく変わりました。特に、これまで信者の家族は直接的な被害者ではないと見られ、泣き寝入りする人も多かった。これは私たちの力不足でもありますが、家族が全国弁連を始めとする相談窓口に助けを求めても、『当事者に気付いてもらうしかない』という回答しかもらえなかったのです。しかし、今は家族の被害にも対応する体制が整いつつあります。
とはいえ、少なくとも刑事裁判ではこうした事情が量刑判断に反映されることはないでしょう。犯罪行為によって社会が変わることは、本来あってはならない。裁判所が法治国家としての機能不全を認めるとは思えません」
※本記事の全文(約9000字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」と「文藝春秋」2025年11月号に掲載されています(鈴木エイト「山上徹也は死刑になるのか」)。全文では、下記の内容をお読みいただけます。
・初公判まで3年かかった理由
・世論の空気は量刑に影響するか
・山上の過酷な「生育歴」
・情状証人を認めない検察
・山上は自身の「絶望」を語るのか

