事件発覚のきっかけは、詰まった下水管に引っかかった“あるもの”だった――。1892年、オーストラリア・シドニー郊外の民家の裏庭から次々と見つかった赤ん坊の遺体。犯人は、養育費目当てに「里子ビジネス」を営んでいた夫婦。

 メイキン夫妻は次々と里子を引き取り、やがて12人もの幼い命を奪っていく。この狂気のカップルのその後とは……? 文庫『世界の殺人カップル』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む

写真はイメージ ©getty

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養育費目当てに「里子12人を殺めた」鬼畜な夫婦

 1892年10月11日、オーストラリア・シドニー近郊のニューサウスウェールズ州マクドナルドタウンの住居の裏庭で、下水の詰まりを修理していた男性が衣服にくるまれた赤子の遺体2体を発見した。通報を受けた警察が捜索したところ、同じ裏庭の土中から他に5つの遺体を見つける。いずれも生後3~5ヶ月の赤ん坊で、腐敗がかなり進んでいた。

 この住居のかつての借り主がジョン・メイキン(1845年生。当時47歳)とサラ(1845年生。同46歳)の夫婦である。2人が結婚したのは、ジョンがビール醸造所で荷馬車の御者を生なり業わいとしていた1871年。その後、男の子5人、女の子5人の計10人の子宝に恵まれるが、1885年、ジョンが仕事中に4歳の子供を車ではね、大怪我を負わせたことで人生が狂い始める。

 この事故により自身も負傷したジョンは失職、生活にも事欠くようになったメイキン夫妻は、助産師だったサラの提案により、当時住んでいた同州レッドファーンで「ベイビー・ファーム=託児所」を開業する。何らかの事情で非嫡出子(私生児)として産まれた子供を引き取り実の親に代わって育てる里子ビジネスである(オーストラリアでは1998年まで人工中絶は非合法)。

 夫婦がいつ頃から殺人に手を染めるようになったのかは定かではないが、後の裁判によると、1892年2月に当時19歳の家政婦アグネス・ウォードが産んだチャールズという男児が最初の犠牲者らしい。アグネスは出産2ヶ月後の同年4月、地元の新聞に「我が子の里親を求む」という広告を出す。

 これに応じたのがメイキン夫妻で、彼らは前金5ポンド(現在の貨幣価値で10~15万円)、週10シリングで子供を養育する旨を提示。家政婦女性はこの条件で納得し、チャールズを手渡す。このとき、ジョンは「最近、我が子の1人を亡くし、死の悲しみを埋めるためにも、チャールズを大切に育てることを約束する」と口にしたうえで、近々、マクドナルドタウンに転居する予定なので新住所がわかりしだい教える、チャールズに会いに来てほしいと告げたそうだ。しかし、その約束が守られることはなく、チャールズは後にレッドファーンの住宅の裏庭から遺体となって発見される。死因は特定できなかった。

 当時、私生児の養育に困った女性は、前出の家政婦のように新聞に広告を出し里親を募るのが一般的で、この後、同年6月から8月にかけて新聞広告を介してメイキン夫妻に引き取られた11人が命を奪われる。

写真はイメージ ©getty

 もっとも、彼らは事がバレないよう、大半の親に一度は我が子と面会させ、その後、風邪で寝込んでいると連絡をしたうえで、急に体調が悪くなり死亡したと電報を打つのが定番の手口で、実際に死んだ子供の遺体に会わせる場合も少なくなかったという。しかし、前記のとおり、同年10月に最初の遺体が見つかり事態発覚。ほどなくメイキン夫妻が殺人罪、死体遺棄罪で逮捕され、1893年3月から裁判が始まった。

次の記事に続く 《判決は…》夫は死刑、しかし妻は…「養育費ほしさ」に12人の子供を殺めた“鬼のような夫婦”の末路(海外の事件・1892年)

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