恐縮だが、冒頭からマニアックなプレーを紹介する。主役は平田良介。現在、首位打者だ。しかし、列挙するのは打撃の話ではなく、走塁。平田に印象に残っているシーンを2つ挙げてもらった。

 7月7日。ナゴヤドーム。中日・ヤクルト12回戦。8回裏。1死2塁。平田はレフトオーバーの打球を放った。ウラディミール・バレンティンはクッションボールを処理。平田は2塁ベース手前でスピードを緩めた。しかし、次の瞬間ギアを入れ直す。

「バレンティンが山なりのボールをショートの西浦(直亨)に投げたんです。しかも、少しカット気味に変化していました。これなら西浦は逆シングルで捕る。その体勢から左回転しての3塁送球は難しい。投げても、右に体を回す。そうすれば、時間がかかる」

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 見事な3塁打だった。

 6月30日。ナゴヤドーム。中日・巨人10回戦。5回裏。無死1、3塁。平田は3塁ランナー。打席の堂上直倫はピッチャーゴロを打った。

「まず、思い切り飛び出しました。挟まれて正解。1-6-3の併殺になるより、三本間で粘れば1アウトでチャンスが続く。内海(哲也)さんは捕球後、僕を見ました。この時、慌てて3塁に戻るふりをしたんです。その後、1塁に送球しかけた。ここでもう1度ホームへ方向転換」

 平田は軽やかに生還した。

 これらのプレーは地味である。しかし、野球は力対力だけではなく、頭対頭の側面も。特に走塁は最も野球偏差値が表れる分野と言っても過言ではない。

6月30日の巨人戦、5回に好走塁で生還した平田良介

「一番僕に走塁を聞きに来るのは京田(陽太)です。彼は貪欲」

 7月9日。横浜スタジアム。DeNA・中日12回戦。1回表。1死2塁。2塁ランナーが京田。打者の平田は高いバウンドのサードゴロを打った。宮崎敏郎が捕る。深い位置から1塁送球。これを見て京田は3塁へ。ボールはファーストのネフタリ・ソトからサードへ。タッチアウトだった。

 試合後、平田はホテルでこの場面の動画をチェックしていた。

 案の定、翌日のアップ中、京田が平田に近付いてきた。

「3塁に行くのはあり。あのバウンドだから、宮崎は捕ってすぐに投げる。問題は宮崎の動きを見る位置。投手が投げる。2次リードを取る。サードゴロが飛ぶ。その時、2塁ベース方向へ2歩戻っている。あれは1歩で良かった」

 平田のプレーには根拠がある。だから、いつも助言は明確だ。

「次の塁を奪うにはどうすればいいか、いつも妄想していた」

 一体、平田はいつから頭を使って相手の隙を突くプレーをするようになったのか。

 野球を始めたのは小学1年生。自宅前の公園が「関目ジュニアスター」という少年野球チームの集合場所だった。

「同級生と金網越しに見ていると、『一緒にやろう』と声を掛けられたのがきっかけです。人生初打席はボテボテのセカンドゴロ。最初はどこにでもいる野球少年でした」

 2年生から6年生まではキャッチャー。投手はあの同級生。

「萬谷君(元DeNA投手 萬谷康平)、全然ストライクが入らなくて」と笑う。

 しかし、ある試合でヒントを掴んだ。

「僕が右バッターの外のボールゾーンに構えたんです。すると、ストライクが続いた。あ、萬谷君はこれが投げやすいんだと。それ以降は外ばかり構えていました」

 この小さな体験が頭を使ってプレーする原点だった。

 その後、衝撃的な出会いが訪れる。

「4年生で『ドカベン』を読んだんです」

 今年で幕を閉じた水島新司さんの名作から平田は野球の奥深さを知る。

「変化球の存在を初めて知りました。インフィールドフライにアウトの変換。その他にも様々なプレーがあることを学びました」

『ドカベン』を読み漁り、野球偏差値を上げていく平田。その頃、足も速くなっていった。

「6年生の時、長居陸上競技場の100m記録会で13秒フラットを出したんです。それで野球部や陸上部、ラグビー部からたくさん声がかかりました」

 平田は地元の中学校に進学し、硬式の「大阪都島ボーイズ」に入団。身長は168cm。体もたくましくなり、野球への探究心も旺盛だった。

 この頃から平田はいつも妄想していたと言う。

「どうしたら、相手の隙を突けるか。インプレー中、次の塁を奪うにはどうすればいいか」

 中学2年生の練習試合。1塁ランナーだった平田は周囲を驚かす走塁をする。

「例えば、1アウトを取ると、どのチームもキャッチャーが『1アウト!』と叫ぶんです。すると、今度は二遊間が外野に向かって叫ぶ。これ、決まりなんです。でも、外野を向くということは一瞬ランナーから目を切る。だから、僕は二遊間が叫ぼうとした瞬間に2塁に走りました。ピッチャーが気付きましたが、ショートもセカンドも2塁ベースカバーに入れませんでした」