松江の士族240人が「乞食」
以下、主として長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の記述にもとに話を展開したい(小泉セツはトキのモデル)。松江藩は幕末の時点で徳川家の親戚である松平家が支配する親藩だった。最終的に新政府に恭順したが、当初の姿勢が曖昧だったため、新政府との関係性はよくなく、そのことで松江の士族の零落に輪がかかった。
明治18年(1885)2月9日の山陰新聞では、松江在住の士族約2300戸の7割が「自活の目途なきもの」で、全体の3割が「目下飢餓に迫るもの」としているという。また、翌明治19年(1886)5月18日に同紙に載った「士族生活概表」によると、58戸240人が「乞食するもの」だったという。
雨清水家のモデルの小泉家も例に漏れなかった。雨清水傳のモデルの小泉湊は機織り会社を倒産させ、まず家来を住まわせていた門長屋に移り住んだ。その後、市内の母衣(ほろ)町、殿町などの縁者のもとを転々とするうちに、湊の次男が19歳で死去し、湊もリウマチで病床に伏し、長男は出奔。
そんななか三ノ丞のモデルになった藤三郎が最悪で、働こうとせず、小鳥を捕まえて飼育するのに夢中で、ある朝、父の湊は病床から起き上がって馬の鞭をとり、鳥かごを縁側から落とし、藤三郎の襟首をつかんで「親不孝者め!」と罵り、鞭で滅多打ちにしたという。湊はこれを機に病状が悪化し、間もなく51歳で死去してしまう。
実母・チエの物乞い姿を見て…
湊が亡くなると、その采配でなんとか生活だけはできていた小泉家は、一挙に転がり落ちていく。そうなると、残されたセツの実母のチエ、すなわち「ばけばけ」のタエのモデルには、もう頼るべき親戚もなかった。チエは松江藩の重臣である塩見家の生まれだったが、長兄の塩見小兵衛も零落。有力な親戚の乙部勘解由家(おとべ かげゆけ)も、第七十九国立銀行の破綻の巻き添えで財産を失い、刀剣類まで売り払うほどだった。