だから、チエも家に残る品々を次々と売り払い、なにもなくなった末に、「ばけばけ」で描かれたように物乞いをするしかなくなったのである。実際、このチエについては、山陰新聞にも「乞食と迄に至りし」と書かれてしまったという。

セツはみずから記した『幼少の頃の思い出』に、「実父母とはとてもくらべものにならぬほどに養い育ててもらった祖父、父母が大切でまたよかった」と書いている。大事なのは養父母だというのだが、とはいってもチエは実母である。『八雲の妻 小泉セツの生涯』には「その一方で、チエへの孝の義務感は一貫しており、彼女の物乞いの境遇が、セツの心に重く伸し掛かっていたことは疑う余地がない」と記されている。

したがって、セツはラフカディオ・ハーンのもとに女中として住み込むようになると、チエの生活を助け、明治24年(1991)6月22日、松江城内堀端にあり、現在「小泉八雲旧宅」として公開されている士族屋敷に転居してからは、その近くにチエのための小さな家も借り、家財道具もそろえて、真っ当な生活を再開させている。

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実弟と絶交したものの

だが、セツには三ノ丞のモデルの藤三郎を助けたいという気持ちは、あまりなかったようだ。事実、セツは実弟の藤三郎とも、実姉のスエとも絶交している。2人が絶交しないではいられない存在だった、ということのようだ。

実際、藤三郎は、小泉家の先祖代々の墓まで売り払ってしまっていた。しかし、結果としてセツは、藤三郎も助け続けることになった。

ハーンとセツが松江にいたのは1年3カ月ほどだった。その後は熊本、神戸、東京と移り住むが、遠方からチエのもとへ仕送りを送り続けた。明治29年(1896)9月6日付でチエがセツに宛てた手紙がある。

そこでは「ひとえニおせつどのの(お)かげとよろこび申し」などと、繰り返しセツへの感謝が述べられ、『八雲の妻 小泉セツの生涯』には、こう記されている。「文面全体が素直な調子に貫かれ、心の卑屈さや屈折を感じさせない。また、そのこだわりのなさは、本来は恥ずべき息子である藤三郎を、『とふさん』の名で三度も出していることでも知られる」。