「そこまで殿下がおっしゃるなら」
1955年生まれの信子さまは、聖心女子学院初等科・中等科を卒業し、1971年、上流階級のマナーなどを教えるイギリスのフィニッシングスクール、ロスリンハウス・コレッジに留学。73年に帰国した。
その頃27歳だった寬仁さまは、伯父の高松宮さまに「お前はどうして結婚しないんだ。あれだけ麻生の家と仲がいいだろう。麻生家にはまだ独身の娘がいるはずだ」と背中を押され、信子さまとの結婚を麻生家に申し込んだ。
ところが、麻生家の反応は思わしくなかった。寬仁さまは共著『いのちの時間』(1995年)で、こう語っている。
「先方の両親や家族に、彼女は身体障害者でもあり心身障害者でもあるので妃殿下にはとても無理ですと反対されて、7年間没交渉になりました」
実際は和子氏からの強い辞退だったと、他の著書に記されている。和子氏の真意は不明だが、寬仁さまから直接この話を聞いた関係者によると、和子氏の返事は直截で、寬仁さまの心に刻まれたらしい。
寬仁さまは当時、ライフワークとなる障害者福祉に取り組むようになっていた。
1973年頃から薨去までともに動いた1人が、白江浩・社会福祉法人ありのまま舎理事長だ。きっかけは身体障害者福祉ホームの建設運動や法人格取得への助力をお願いしたことだったと白江氏は振り返る。
「全国を駆け回って資金集めなどにご尽力いただいた経緯から、法人の総裁になっていただきましたが、決して名誉職ではありません。“現場監督”と称してチラシの一言一句や催し物の席順までチェックを入れてくださり、我々が反対意見を言うことも含め議論を大変好まれた。『立っている者は皇族でも使え』とおっしゃり、非常に対等な関係性でした」
常日頃「100%の障害者も100%の健常者もいない」と語り、障害の有無にかかわらず自然体で声をかける姿勢が一貫していたという。寬仁さまは一時「皇籍離脱」を宣言して物議を醸したことがあるが、宣言の理由は、障害者福祉などに専念したいというものだった。
「そこまで殿下がおっしゃるなら、結婚を認めましょう」
麻生太賀吉氏が折れたのは、寬仁さまが二度目の結婚のお願いに麻生家を訪れた時だった。その際、寬仁さまは「あなたたちみたいな福祉の素人が育てたから失敗したので、私のような障害者福祉の玄人が育てたら治ります」と訴えたと、『いのちの時間』で述べている。
※本記事の全文(約10500字)は、月刊文藝春秋12月号と、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(秋山千佳×本誌取材班「彬子女王と母信子妃 決裂の瞬間〈三笠宮家分裂の凄まじい内幕〉」)。
全文では、下記の内容をお読みいただけます。
・出産時には命の危険もあった
・信子妃の「ストレス性喘息」
・寬仁殿下、アルコール依存症公表
・「あの方は宮家にふさわしくない」
・皇族費をめぐる火種
・16億円超に上る改修費

