フランス留学の内示

 東京・霞が関の中央合同庁舎2号館が現在建っている場所に、かつてスクラッチタイルの5階建ての庁舎があった。関東大震災級の地震にも耐えうる鉄骨鉄筋コンクリート造で、1933年に竣工された建物だ。大東亜戦争中は内務省庁舎として使用され、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部:General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)によって、同省が解体された後には、警察庁などが入居していた。

 その庁舎4階にある人事課執務室において、1982年7月に、私は後に警視総監となる奥村萬壽雄ますお課長補佐からフランス留学への内示を受けた。

「北村君、留学を目指すなら英語よりもフランス語をやったらどうだ。最近はフランス語使いが求められているから」

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 そんな勧めに従ってフランス語を学んだ成果だった。当時、入庁3年目の若者だった私は、内務省伝来の古色蒼然たる庁舎での文書審査に明け暮れていた。奥村課長補佐からの内示によって、外国でしばし羽を伸ばせると、私の中に解放感が生じ、ただただうれしかったことを憶えている。

 だが、私をフランスに送り出そうとする警察庁には、「日本赤軍」や「よど号」グループなど我が国が直面していた国際テロ組織と闘うためのインテリジェンスオフィサーを1人、戦列に加えるという含意があったのだと思う。私がそれを理解するのは後になってのことだ。

 1970年3月31日、「赤軍派」の学生ら9人が羽田発福岡行きの日航機を乗っ取り、乗客・乗員計129人を乗せたまま北朝鮮に向かうよう要求する。福岡空港や韓国・金浦空港で人質を少しずつ解放し、4月3日に北朝鮮へ渡った。事件は「国際根拠地建設」構想に基づく犯行だった。犯行グループの学生らは後に、乗っ取った日航351便の機体につけられた呼称から、赤軍派「よど号」グループと呼ばれるようになる。

日本赤軍のリーダーだった重信房子は、出所時に支援者の横断幕に迎えられた ©文藝春秋

 9人が北朝鮮へ渡ってちょうど1年後の1971年、重信最高幹部らがレバノンに渡り、「赤軍派アラブ地区委員会」を結成。これは「赤軍派」のもう一つの国際テロ組織で、後に「日本赤軍(JRA: Japanese Red Army )」と呼ばれる。

 自国発のテロ組織が海外で引き起こす凶悪なテロ事件を捜査する。我が国の外事警察は、日本赤軍の登場によって、新しい領域に踏み込まざるを得なくなったのだ。

恐怖のテロ組織として

 そして、1972年5月30日、岡本公三ら3人がイスラエル・テルアビブのロッド国際空港で自動小銃を乱射、手榴弾を投擲し、死者24人を含め100人を殺傷する「テルアビブ・ロッド空港事件」を引き起こす。共犯の2人は、現場で自爆し、死亡。岡本は、イスラエル当局に逮捕され、服役したが、後にパレスチナ武装組織との捕虜交換で釈放され、レバノンなど反イスラエルの中東諸国で事実上の保護下に置かれる。

 このJRAの“デビュー戦”ともいえるテロは、我が国の外事警察にとって日本赤軍との長い闘いの始まりとなった。

※本記事の全文(約1万字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(北村滋「日本赤軍との戦い」)。全文では下記の内容をお読みいただけます。
・恐怖のテロ組織として
・田中義三をめぐる攻防
・「アラブの大義」の体現者

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