「50年も会社が続くとは、想像していなかった」
ただ、印刷機を導入したとはいえ印刷に関しては「素人の集まり」だったと中澤氏は当時を振り返る。
「仕上がりは、正直あまり良くなかったと思います(笑)。昔からの知り合いのお客さんからも『ポプルスって昔は下手だったよねえ』と言われるくらいですから。とくに漫画の印刷はベタやトーンの再現が難しいんですよね。それでもみなさん、自分が描いたものが印刷される感動が大きかったようで『「ジャンプ」みたいだ!』と、感激してくれて、非常にやりがいがありました」
1970年代半ばから1980年代にかけては、ポプルス以外にも同人誌専業やそれに近い印刷所が続々と登場している。そうした業者の多くは「漫画同人誌専門」を謳い、コミケやそこから派生する即売会との関係を深めていった。コミケなどを通じて同人誌印刷所の情報も入手しやすくなり、一般の個人にも同人誌制作が身近なものになっていった時代だ。
そんな中、印刷のプロ集団ではなくアマチュアが集まって印刷事業を始めたポプルスは、独特のポジションを占めるようになる。
「当時は大学ミニコミのブームでもあり、我々は初期から『早稲田乞食』など文章主体の印刷物も多く手掛けていたので、大学サークル間の口コミでお客さんが広がっていきました。
とはいえ印刷を生業にする意識は希薄で、50年も会社が続くとは私たちも想像していなかったです。本業の仕事をしながら、自分の漫画を描き、頼まれたら印刷もやるという感じで、当時の私でいえば3足くらい草鞋を履いていましたから」
ポプルスが本格的に事業として印刷に向き合い始めたのは、1980年代以降だ。第2回のコミケから印刷の依頼が出始め、コミケが規模と参加サークル数を拡大させるにつれて引き合いが増加。中澤氏いわく、かつて「物々交換みたいなものだった」という同人界隈のイベントが、一気に巨大化していったタイミングだった。



