岸政権が、児玉に暴力団動員を依頼した理由
60年安保闘争後、児玉は左翼潰しに暴力団を使うことを考え、岡村を仕切り役として関東の有力暴力団を結集させ、「関東会」を作った。関東会に参加したのは錦政会(現・稲川会)、住吉会、松葉会、日本国粋会、義人党、東声会で、児玉はこれらの組に人脈を広げた。東声会会長の町井久之とは、前述した日韓交渉時の裏交渉でも協力して臨んでいる。
もっとも、左翼の対抗勢力に暴力団を使うというアイデアは、児玉のオリジナルではない。戦後まもない頃に吉田茂内閣の木村篤太郎法相が、共産革命阻止を目的に全国の有力暴力団を糾合し、20万人の民兵組織「反共抜刀隊」を創設する計画を立てた。
あまりに無謀だとして吉田首相が承認せずに立ち消えになったが、その後、60年安保闘争時に岸政権が、児玉に暴力団動員を依頼したのだ。
暴力団からの動員は3万人以上だった
これは、60年安保改定で当時の米国・アイゼンハワー大統領の訪日が決まった際、安保反対派による大規模デモを蹴散らすために、武闘派のグループを作るという案だった。このグループは「アイク歓迎実行委員会」と名付けられた。
アイク歓迎実行委員会には、前出・木村篤太郎らが参加する自民党系反共団体「新日本評議会」、やはり木村が率いる右派宗教横断組織「紀元節奉祝会」(中核は生長の家)、元軍人組織「日本郷友連盟」の有志、さらに児玉が結成していた右翼横断組織「全日本愛国者団体会議(全愛会議)」が参加することになった。この全愛会議の裏部隊として、児玉の呼びかけで暴力団が動員される計画だった。
もとより右翼団体からの動員予定が約5000人、元軍人・宗教団体から約1万人だったのに対して、暴力団からの動員は3万人以上だったという。アイク歓迎実行委員会は実質的には、岸政権の依頼で児玉が組織した「デモ粉砕の暴力団大動員」と言っていいだろう。
結局、この時は訪日が中止になったため、この暴力団動員は行われなかった。児玉のような人物が政界で重宝された無茶苦茶な時代とはいえ、仮に計画が実行されていたら、日本現代史の汚点になっていたに違いない。
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