戦後日本の裏側では、政官財を動かす“黒幕”たちが静かに力を振るってきた。闇社会との関係だけでは語れない、金脈と人脈を駆使した彼らの実像とは――。
ここでは、軍事ジャーナリスト・黒井文太郎氏の著書『日本黒幕大全 金脈と人脈で戦後80年を動かした怪物48人の正体』(徳間書店)より一部を抜粋。戦後最大級のフィクサーとして知られる児玉誉士夫氏の素顔に迫る。(全2回の2回目/1回目から続く)
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行動右翼の代表的組織「全日本愛国者団体会議」を創設
児玉誉士夫は太平洋戦争中に上海で「児玉機関」を率いて、なかば略奪のような海軍の戦略物資調達を行い、終戦時のドサクサに大量の貴金属を持ち帰った。その資金を鳩山一郎らの新党創設など政界工作に使ったことで「大物フィクサー」にのし上がった男だった。
児玉は戦後の右翼界でも大きな影響力を持っていた。特に1959(昭和34)年には有力な右翼を集めた「全日本愛国者団体会議」(全愛会議)の創設を主導し、自身は最高顧問に名を連ねた。
全愛会議は約80団体で発足したが、1965(昭和40)年頃までには400団体以上が参加する、名実ともに日本の行動右翼の代表的組織となった。
その全愛会議の中核組織のひとつとして、1960(昭和35)年に児玉直系の武闘派組織として義人党や護国団など28団体から成る「青年思想研究会」(青思会)を創設。
青思会は70年安保闘争の絶頂期だった1969(昭和44)年に全愛会議を名目上は脱退して山中で軍事訓練を行い、左翼学生過激派を襲撃するなど、その行動をエスカレートさせていった。つまり、児玉は直系の右翼過激派を育成していたと言える。
裏社会にも通じ「裏の調整役」として影響力を持ったが…
さらに、児玉機関時代の配下だった岡村吾一が戦後に関東の有力暴力団「北星会」会長になったことから、児玉は裏社会にも広く顔が利いた。
さらなる暴力団ネットワークへの影響力拡大を狙い、当初は全国の組織を「東亜同友会」という新組織に大同団結させることを目論んだ。が、山口組など関西の組織のとりまとめに失敗し、1963(昭和38)年に関東限定で「関東会」を作った。
こうして児玉は、政財界と裏社会の両方に通じることから、裏の調整役として大きな影響力を持った。
ただし、それはあくまで社会の水面下に君臨する黒幕としての力だった。ところが、その児玉の名前が連日、新聞に載るような事態が1976(昭和51)年に勃発する。戦後最大の疑獄事件といわれるロッキード事件である。
