「約21億円をコンサルタント料として児玉に渡していた」

 全日空の次期機種選定にあたって、米ロッキード社が全日空に影響力のある日本の政治家に賄賂をばら撒いていたとされる事件で、田中角栄元首相が受託収賄罪で有罪になったことで日本社会に大きな衝撃を与えた。

 同事件は米国議会で最初に火がついた形だったが、その公聴会でロッキード社の会計検査人が「裏工作の主ルートは児玉誉士夫で、同社は総額約700万ドル(当時の為替相場で約21億円)をコンサルタント料として児玉に渡していた」と証言したのだ。

 東京地検特捜部の捜査などで浮上したロッキード社から日本政界への裏工作ルートは3つあった。(1)総合商社・丸紅を通じた丸紅ルート(2)全日空から自民党運輸族議員への全日空ルート(3)児玉誉士夫から田中角栄の盟友である小佐野健治・国際興業社主を経由する児玉ルート。

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 しかし、児玉は病気を理由に捜査をかわし、最後まで一切、口を割らずに逃げ切った。

児玉誉士夫 ©文藝春秋

「年間5000万円」「成功報酬25億円」ロッキード社との秘密契約の中身

 もっとも、児玉の名前がこうした大型疑獄で登場したのは、この事件が初めてではない。

 たとえば、1958(昭和33)年の自衛隊次期戦闘機機種選定でもロッキード社とグラマン社の熾烈な戦いがあったが、この時も児玉はロッキード社の秘密代理人として、河野一郎・自民党総務会長と協力し、ロッキード社機の逆転決定に暗躍した疑惑がある。

 あるいは、1977(昭和52)年の自衛隊次期対潜哨戒機選定で、当初の国産路線を覆してロッキード社機に逆転決定した際も、同社の秘密代理人は児玉だった。

 前出のロッキード社・会計検査人は「児玉には1960年代から仕事をしてもらっていた」とも証言しているが、実際にロッキード事件で明らかになった同社資料によると、児玉が同社の秘密代理人として正式に契約したのは1969(昭和44)年のこと。

 その後、両者の秘密契約は改定されているが、結局、1973(昭和48)年には「コンサルタント料として年間5000万円」「対潜哨戒機50機以上の販売で成功報酬25億円」などの巨額の報酬契約が結ばれている。