無数の「グリ森事件」の謎の中で……

 作中事件のモデルは、犯人グループが大手製菓・食品会社を脅迫し、殺人未遂罪に問われた昭和最大の未解決事件「グリコ森永事件」だ。固有名詞こそ変更されているが、事件の発生日時や犯行現場、犯人グループの挑戦・脅迫状の内容はほぼ史実通りだ。著者が記者時代に身に付けた、足を使った取材と徹底的な資料の読み込み、というスキルが本作でも遺憾なく発揮されており、ノンフィクションと見紛うリアリティが実現している。しかし、本作を成功に導いた最大の要因は、この物語にとって解くべき「謎」を何とするかの見極めと、その磨き上げにあった。当時の塩田の言葉を引こう。

「僕はこの小説で、犯人当てをしたかったわけじゃないんです。グリ森事件を扱ったノンフィクションは今まで無数に出ていますが、どれも犯人に焦点が当てられている。脅迫テープに声を吹き込まされた、加害者に加担させられた子どもに視点を当てたものはないんですね。もちろん、あの声は自分だと名乗り出た人がいない以上、取材はできずノンフィクションで書くことはできません。でも、小説なら、小説家ならば、書ける。あの事件は子どもを巻き込んだ陰湿な犯罪だったということ、実際にこういう子どもがいたかもしれない、悲しい人生があったかもしれないんだということを、小説を通して世の中に伝えたいと思いました」(「ダ・ヴィンチ」2016年10月号)

塩田武士さん ©文藝春秋

 塩田武士はこの作品で、グリ森事件における子供の存在という「謎」と向き合うことで、熱く快感に満ちたエンターテインメント小説の書き手から、社会派ミステリー小説の書き手へと変身を遂げたのだ。(後編へ続く)

踊りつかれて

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