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「イラク日報」で判明した、自衛隊員がもっとも死に近づいた瞬間

現地での危険は、砲撃や銃弾ばかりではなかった

2018/08/10
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 前回、公開から3ヶ月以上経ったにも関わらず、「自衛隊『イラク日報』――ブラック職場が生んだ意味なさぬ黒塗り」を書いたところ、それなりの反響を頂いた。前回は日報から「削除された」情報についてだったが、今回は日報に「加えられた」情報について考察する。

サマーワで警備を行う自衛隊員 ©共同通信社

会議中に幕僚個人が書いたと思われるメモ

 今年4月16日に公表された日報は、本隊である『イラク復興支援群』、本隊を支援する『イラク復興業務支援隊』、そしてサマーワ宿営地からの撤収作業を支援した『イラク後送業務隊』の3隊で、計435日分、14,929ページある。このほとんどは陸上自衛隊の各機関に保管されていたものだが、その状態は一様ではない。

 公表された日誌の中にも欠落などの不完全なものが含まれており、その保存形式も異なっていた。ほとんどはモノクロで用紙1枚に2ページ表示するツーアップで出力されているが、カラーで1ページずつ記録されたものもある。

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 そして正確に言えば、公表された自衛隊イラク日報は、イラク派遣部隊が作成した日報そのものではない。モノクロのツーアップ日報は、恐らく統合幕僚監部(2006年3月27日以前は統合幕僚会議)や陸上幕僚監部内での会議用に配布されたもので、会議中に幕僚個人が書いたと思われるメモ書きが見られる。メモの中には、会議での部課長クラスの発言など、本来の日報そのものに無い情報まで含まれ、中には黒塗りされているものもある。

 日報はイラク派遣部隊が日々の状況を東京に報告するために作成したもので、現地の認識を元にしているが、メモは東京の幕僚達の認識をうかがわせるもので興味深い。

メモから伝わる当時の市ヶ谷の状況

 例えば、2006年2月1日の日報では、毎日掲載している現地雇用者数の情報について、宿営地内役務者180名と書かれている下に、「80名 部族関■」と記されている。恐らく、イラクで今も根強い部族社会を考慮し、部族の力関係等を考慮した雇用者の部族枠と思われる。

イラク復興支援群日報(2006年2月1日)より

 また、2006年5月25日には、陸幕運用支援・情報部長(当時)が雇用者数の減少を問題にしたようで、「夏場に雇用数が極端に減少することはおかしいし、避けるべき」と危機感を表明して、案件を増やすべきとしている。また、恐らく案件創出の実行については、統幕と陸幕の間に認識の差異があるのではないかと運用支援・情報部長は見ているなど、当時の市ヶ谷(防衛省)の状況が伝わってくる。

イラク復興支援群日報(2006年5月25日)より