転居の理由は、熊本の第五高等学校(現・熊本大学)の招聘に応じたからで、「ばけばけ」のヘブンのように、セツが揶揄されずに済む環境に移ろうと考えたのかどうかはわからない。ただ、松江時代よりも経済的な余裕が生まれたことはまちがいない。
というのも、月給は松江時代にも100円(現代の金額で200万~300万円ほどか)と、知事並みの高給だったのが、さらに2倍の200円になったからである。このため、現在も熊本市内に移築保存されている広い屋敷には、セツの養父母、養祖父だけでなく、松江から呼び寄せたり熊本で雇ったりした複数の女中が同居し、そのうえ学生をはじめさまざまな人が入れ代わり立ち代わり寄宿したという。
家は徹底して和風に
セツの養父母の同居は、ハーンにとって好都合だった。とくにトミが家事をはじめ、家中のほとんどを取り仕切ってくれたので、セツはハーンの身の回りの世話と、ここから二人三脚で進めていくことになった執筆の手伝いに専念できたからである。
また、暮らしは松江にいるときよりも若干、西洋風に振れたようだ。ハーンのひ孫の小泉凡氏は『セツと八雲』(朝日新書)に次のように書いている。
「やがて西洋料理の調理人を雇い入れ、パンやステーキなどの食事をつくってもらいました。その方が経費が抑えられたようです」「この時期のスケジュールとしては、朝6時ごろにセツに起こされます。神棚に拝礼してから、パンに卵、コーヒーの軽い朝食を取ります。セツが持ち物を渡したり、ポケットに気をつけたりと世話をして洋服に着替えます。家の人々に見送られながら、人力車に乗って出勤します」
松江の西洋料理屋から「松」という女中を引き抜き、わざわざ呼び寄せたりもしているが、彼女は西洋料理の調理にも長けていたということだろうか。
しかし、若干の西洋風は取り入れても、家は断固として和風にこだわった。第五高等学校にある外国人教師向けの洋館も見学したが、畳の部屋がないのを理由に断り、松江で暮らしたのと同様の、武家屋敷風の家を探したのだという。