「日本で住んでいた一番興味のない都市」

そんなハーンにとって、熊本は魅力的に映らなかったようだ。前出の『セツと八雲』によれば、ハーンは「ばけばけ」の錦織友一(吉沢亮)のモデルで、日本における最大の親友だった西田千太郎に宛てた手紙に、熊本は「わたしがこれまで日本で住んでいた一番興味のない都市であることに変わりありません」と書いている。

また、『古事記』の英訳者で、日本研究の大先輩であるB.H.チェンバレンに宛てた手紙でも、次のように吐露している。「人生に生きる目的を与えてくれたのはゴーストです。(略)彼らは私たちに生きる目的、自然を畏怖することを教えてくれました。ゴーストもエンジェルもデーモンも今はもういません。この世の中は電気と蒸気と数字の世界になってしまいました。それは味気なく、空しいことです」。

「神々の国の首都」と呼ばれた松江は、ヘブンが滞在した当時、城下町の佇まいがよく残っていただけでなく、杵築大社(現・出雲大社)を筆頭に、古代からの記憶とつながる旧跡が周囲にたくさんあった。

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一方、明治10年(1877)の西南戦争で城はもとより、城下町も焦土と化した熊本には、すでに古き良き日本の面影は希薄だった。また、天守をはじめ主要な建物が焼け落ちた熊本城には、陸軍第六師団の司令部が置かれ、市内にはいつも兵隊があふれていた。そういう熊本が、ハーンには耐えられなかったようだ。

たった3年で神戸に転居

熊本に転居してちょうど2年がすぎた明治26年(1893)11月17日、夫妻は待望の第一子を授かった。長男の一雄である。その5カ月後、夫妻は小さな一雄をともなって、金毘羅宮(香川県琴平町)にお参りした。

しかし、そのことを報告した西田宛の手紙は、次の言葉で結ばれている。「熊本が日本であるとは全然思われない。熊本は大嫌いだ」。

ハーンの熊本在住時に第五高等学校の校長だったのは、柔道家として名高く、「日本の体育の父」とも呼ばれた嘉納治五郎で、ハーンは英語も流暢な嘉納について、「一度会っただけで、久しい友であるかのような気がする」と、西田に書き送っている。だが、嘉納はハーンにとって、熊本におけるかなり例外的な存在だったようだ。長谷川洋二氏は『八雲の妻』(潮文庫)に、次のように書いている。