「私ね、とても貧しい家に生まれて、病気の父を助けるために、12歳のとき、倉敷の紡績工場で働き始めたの」
その寄宿舎で、16歳になった山中すてらは同室の仲間に「この世でいっとう、おもしれぇ小説」を書くと宣言した。起床は朝5時。始業は7時。工女としての日々のなかでは、実際に帳面に鉛筆で書きつける時間の余裕はなく、頭の中の「作文ノオト」を開き思うままに日々を綴ってきたが、ついに書き出す日がやってきたのだ。
貧しさゆえ尋常小学校に通えなかったが、聖書を読むために文字を教会で学び、親身に愛情を注いでくれたアメリカ人宣教師・アリスと話したい一心で英語も学んだ。好きなことを3つあげるなら、「読書」「物書き」「翻訳」。本書は「言葉」を支えにし、光として明治から大正の世を生きる少女の姿を活写していく。
初めての小説〈回転木馬〉を書き上げ、初めての読者を得た緊張と喜び。淡い恋とその終わり。嫁ぎ先が決まり仲間たちが工場を辞めていき、すてらもまた故郷の岡山に戻る。しかし、ようやく見つかった新たな働き先で思いもよらぬ痛みを負い、病身の父を残し、東京へひとり旅立つことになった。
結果として、すてらは神楽坂に住む流行作家・常和田伊作の書生となり、編集者に見出され「職業作家」の道を歩み始める。
生れた「家」に人生を左右されるのがあたり前の時代、自分の手で進むべき道を切り拓くことは容易ではない。貧しさ、年齢、女であること。それでも、足枷となるものから目を逸らさずに前を向く、すてらの懸命な姿に胸が熱くなる。
作中、すてらは宝物のように芸術雑誌〈白樺〉を愛読し、掲載された小説のみならずヴィンツェント・ヴァン・ゴオホの口絵と画評に魅せられ、絵画へも関心を広げていく。
『楽園のカンヴァス』『暗幕のゲルニカ』『サロメ』など、アートに材を取った小説を多く手掛けてきた著者ならではの展開だが、すてらが一見して抱く「絵」の印象を、言葉を尽くして表現し、読者に伝えるその説得力に唸らされる。巧い。
倉敷紡績の社長・大原孫三郎をはじめ、武者小路実篤、夏目漱石、大原の支援を受け世に出た画家の児島虎次郎など実在の人物がすてらと関わり、深く影響するのも楽しい。
すてらの師となる常和田や、父の又八、母のトメが抱えてきたものの重さに息を吐き、それでも信じる心の尊さに祈りを捧げたくなる。作中で、すてらがアリス先生に宛てた手紙の中に、ある人物から受けた言葉が綴られている。
〈私は血が通い呼吸をする文章こそが、人の心を動かすものだと思っています〉
これはそんな物語だ。
広がっていく。伝わっていく。そしてこれからも、すてらの道は続いていく。
はらだまは/1962年、東京都生まれ。2006年『カフーを待ちわびて』でデビュー。12年『楽園のカンヴァス』で山本周五郎賞、17年『リーチ先生』で新田次郎文学賞、24年『板上に咲く』で泉鏡花文学賞を受賞。
ふじたかをり/1968年、三重県生まれ。書評家。著書に『だらしな日記』『ホンのお楽しみ』、『東海道でしょう!』(共著)等。
