戦後間もない青森で起きた大学教授夫人殺害事件。動転した母親が目にしたのは、血まみれで布団に倒れている娘のすず子さんだった。

写真はイメージ ©getty

 さらに捜査に協力していた25歳の無職男性が、わずか一言の目撃証言と杜撰な血液鑑定によって犯人に仕立て上げられ、15年の実刑判決を受けた。

 しかし28年後、思いもよらぬ電話が事件の闇を切り裂くことになる。

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熱心な捜査協力が仇となった皮肉

 1949年8月6日、青森県弘前市で弘前医科大学教授の妻・すず子さんが何者かに殺害された。現場から200メートル離れた場所で警察犬が足を止めた付近に住んでいたのが、那須隆さん(当時25歳)だった。

 警察官への復職を望んでいた那須さんは、事件の一報を聞くや現場に駆けつけ、自主的に聞き込みを行った。自転車で走り回っては不審人物を捜索し警察に通報、自宅周辺から血痕や凶器を発見しようと懸命に捜査協力していた。

 しかし皮肉なことに、その熱心さが仇となる。那須さんが持ち込む情報が的外れなものばかりだったことから、「自分の犯行を隠すため、わざと他人を犯人視しようとしているのではないか」と疑われたのだ。

 決定的だったのは、被害者の母親による面通しだった。事件直後の調書では「犯人の顔はほとんど見ていなかった」と述べていたにもかかわらず、那須さんとの面通しで母親は断言した。「犯人とそっくり。髪型も横顔の輪郭も全く同じ。後ろ姿も一致している」

 さらに警察は、那須さんのズック靴と開襟シャツから「被害者と同じB型の血液が付着している」という鑑定結果を得た。しかし、この血液鑑定には数々の問題があった。通常は1日を要する人血鑑定をわずか2時間で行い、後に鑑定医師自身が「血液型の判定は試料不足のため不可能だった」と撤回している。他の鑑定機関による検査では「血痕は一切認められない」という結果も出ていた。

 それでも検察は血液鑑定を決定的な証拠として死刑を求刑。一審では無罪判決が出たものの、控訴審で懲役15年の判決が下され、1953年に刑が確定した。

「 真犯人と思われる人物がいる」

 10年の服役を経て仮釈放となった那須さんは、出所後も身の潔白を証すため奔走したが成果は得られず、やがて雪冤への熱意も薄れ始めた。

 そんな1971年5月29日、読売新聞記者のもとに1本の電話が入る。

「弘前大教授夫人殺し事件の真犯人と思われる人物がいる」

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 真犯人の正体は。彼が自白するきっかけとなった「ある有名人の死」とは……この文章の本編は、以下のリンクからお読みいただけます。

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